レクイエム・前編



 古泉がびっくり眼で俺を見上げている。
 純粋な驚きの下に、明らかな困惑が、困惑だけが顔を覗かせていた。
 一度は好きとまで言った相手に、ベッドで馬乗りになられてるんだ、少しくらいは嬉しそうにしやがれ。いや、好きとは言わなかったか。正確には、「好きに なりかけているかもしれない」だったな。だがこいつの性格からして、そこまで口にしたということはかなり気持ちが固まっているってことだ。
 基本、臆病な男なのだと思う。テリトリー意識が強く、今まであまり他人に心のうちを曝け出すような深い付き合いをすることもなかったからか、人との距離 感が計れておらず、また、自分の内側に入り込まれるのを極端に嫌う。そういう性質だからこそ、惚れ合った相手に3ヶ月も触れられなかったのだろう。男とし て普通在り得んだろうに。
 男同士を障害と感じないインモラルなところはあるし、タガが外れて力づくで人を組み敷く凶暴性はある。それでも、一度根底から崩れたアイデンティティを 再構築させるにはおっかなびっくり、元の倍の時間をかける必要があるのだろう。
 だが、今は時間がない。
「…何をなさる気です?」
 何もかにもあるか。この体勢で他にナニをする気だ。俺は無言で古泉の制服をはだけていく。涼やかなツラに似合う深緑色のジャケットを開くと清潔なアン ダーウェアが立ちはだかった。
「ちょっ…」
 驚いて起き上がる古泉の体をそのまま引き寄せ口付けする。開いていた口から舌を潜り込ませて柔らかく動き回る肉を食む。上顎から唾液をこそげ取り、俺の それと混ぜ合わせて嚥下する。下唇を甘噛みすると、湿った吐息が零れた。
「しよう」
 体を少し離して古泉を見つめる。
「抱いてくれ、俺を」
「…え…」
 なんだその驚いた顔は。当惑した態度は。股間は全く反応していないし顔に赤み一つない。…嫌、なのか?
「あの…、なんで?」
 お前こそ何で問い返す。抱かれたいから抱けと言っている。言葉通りの意味でしかない。
 そりゃ、お前が、いまいちどころかいま五つくらい踏ん切りがついていないのは分かる。
 だが、いつまでも待っていられないんだ。
「時間がないんだ、古泉」
 リミットはすぐそこだ。だから、気持ちの整理が付いていなくても良い、取りあえず俺を抱け。


 未来は、どうなるかは分からない。
 そう教えてくれたのは他ならぬ未来人だった。
 私たちにとっての未来だけでなく、私たちには過去であるあなたの未来も。
 公に記された歴史ですら唯一ではなく、まして歴史に重きを残さなかったささやかな個人の未来は、人生は、一寸の先読みすら出来ない。人の決意はその人の 行く末を方向付けはしても、固定はしない、未来はいくらでも変わる、と。
 だからあなたが今、二度とSOS団には戻らないと決心していても一生涯通して絶対なんて保証はない。あなたの心は変わらなかったとして、何かの偶然が導 く可能性だってある。だから、万一そういう機会が巡ってきたらで構わない、その時に朝比奈みくるに伝えて欲しい。
 そう、朝比奈さんより少し後の時代から来たという未来人は俺に伝言を託した。
 ここに戻る1ヶ月前、俺の人生をあいつに引き渡して俺は二度と表舞台には戻らないと硬く決心をし、主星の衛星で、軍の監視の下、ひたすら時間を空費して いた時だ。
 反抗的な模範囚だった俺は、毎日決まった時間に、散歩という名の下課せられた体力維持の為の周辺巡廻を行っていた。その最中に呼び止められたのだ。監視 人が居たはずだったが、何か細工をしたのだろう、それらしい姿は見当たらなかった。
 その当時の俺は最高潮に荒んでいて、あらゆることに後ろ向きだった。親友の言葉からも、身内の眼差しからも顔を背け、自分の為にすら、指一本動かしたく はなかった。このまま地面に這い蹲って一生を終わらせる気でいたのから、再び朝比奈さんに会える日が来るだなど有り得ないとは思っていたが、帝国すら存在 を知らないという未来人に心が揺れ、取り合えずその伝言は受け取るだけは受け取った。
 ありがとうと微笑む相手に、軽い好奇心を憶えて「俺は戻るのか」と聞いたが未来人は肩を竦めた。「“キョン”は継続している」と。嘘か本当か、それ以上 のことは未来人でも分からないということだった。

 あいつが死んだからお前は戻れと言われた時、真っ先に思い出したのがあの未来人の言葉だ。
 「未来はどうなるか分からない」「未来はいくらでも変わる」「“キョン”は継続している」。
 そのどれに反応したのか自分でも定かではないが、あいつにしでかした罪の重さにあえぎ、素手で身を裂かれる痛みに苛まれつつも、あの言葉に、天啓のよう な甘やかさを感じて取っていたのも確かだ。


 SOS団に戻った俺だったが、俺は俺として生きるつもりはなかった。一度は全てに背を向けたものが、再び前に向き直るのには凄まじい気力と体力が要る。 俺はそれほど前向きではなかったし、一旦捨てたものを拾い戻るマメさも女々しさも持ち合わせてはいなかった。
 俺は死んだ。もう俺は居ない。今のコレはあいつのコピーだ。あいつの身代わりで、フェイク、偽者だ。偽者だが悟られてはならないレプリカントで正しくあ いつを演じなければならない。
 それはつまり、俺が俺に戻るということだったのだが俺を演じていたあいつを演じるというワンクッションを置いて誤魔化さなければ精神が持たなかった。人 一人の命を、間接的に奪ってしまったという重圧に耐え切れなかったのだ。

 今にして思えば、最初から古泉に救われていた。
 俺を知らず、あいつを知っている男。俺をただのコピーと認識して接した、ただ一人の断罪人。
 古泉は、嫌悪感を剥き出しにして俺を見た。嫌われていると思って、俺は酷く安心した。
 そうだ、俺は酷い男なんだ。己の任務を半ばで投げ出し、人に押し付け、そいつの命を奪った。あいつは、俺の身代わりとなって死んだ。俺はろくでなしの極 悪人だ。のうのうと、何もなかったふりをしてSOS団に溶け込んで良い身分じゃない。もっと蔑んで欲しい、軽蔑されて当然だ。
 古泉の冷たい視線が刺さる度、突き放した言葉が俺を打つ毎、俺は罪人の当然として裁かれ続けている事に安心をした。
 古泉のあの態度がどこから来たのか分からなかったが…、…いや、識閾下では分かっていた。“帝国”に対する憎悪とか、俺という存在自体とそりが合わない とか、一応ありきたりの想像をして納得させてみていたが、ちゃんと分かっていた。
 あの、深層に業火を隠した暗い目を見て分からないわけがない。
 ただ、あいつも俺だから、人一人にそこまでの情を持たせる資質があるわけがないと見くびっていたのだ。
 古泉の、表面的には不可解だった言動の意味がはっきり分かったのは無理矢理犯された時だ。
 最初、いきなり唇を奪われた時は暴力だと思った。口付けの、もっともシンプルな意味を取り違えて突き放し、ベッドに俺を引き倒した腕は憎しみを携えてい るのだと勘違いをした。
 だが違った。
 古泉が俺を抱いたのは、俺を身代わりと扱った以外は、最も単純な理由からだった。

 その日以来、古泉は二日と開けず俺を部屋に誘い、俺は一度も断らず部屋を訪れ体を繋げた。こんなこと、一生慣れるものかと思っていたが、数日で慣れた。 どころか、行為に快感を拾う余裕まで出てきた。痛みしか伴わなかった行為なら罪に対する罰だと甘んじていられたというのに、こんなんじゃ罰にならないじゃ ないかと自分でも呆れたが、別の角度からみればこの上ない厳罰だった…と、気付いたのは随分後になってからだ。
 体だけでなく心も日に日にほだされ、古泉のことをどんどん好きになっていたがそれについては戸惑いはなかった。だって“俺”は古泉を愛しているんだろ? だったら、当然じゃないか。

 …いつの頃からだろう。あいつの代わりにと思っていたのに、俺自身が古泉に惹かれ出したのは。
 ほんの僅かな兆候で良いと言うのなら出会ったなりだ。古泉は一目で俺とあいつを別人と見破った。それまでなかったことで、こいつは特別な男だ、そう 思った。

 はっきりと、俺自身が、あいつの身代わりではない俺が古泉を好きになっていたと気付いたのは古泉にあいつではない俺を好きになったかもしれない、と告白 された後だ。それまでは確かに俺は古泉に惹かれていたがそれはあいつと同化した俺だからであって、あいつとは違う俺がとは考えていなかったのだ。
 それまで俺は、俺の残りの人生は完全にあいつの為だけにある、あいつの身代わりとして生きていくつもりでいた。だが古泉の告白で人格が分断された。俺と あいつ、他ならぬ古泉の手によって、別の人間だ、その上で好きになったかもしれないと言われた。
 最初はただただびっくりした。俺自身、俺はもう俺でなくあいつのコピーで俺としての人格を持たないと思っていたからだ。あいつのことは俺とは違う人間だ と思っていたはずなのに、俺は自分をあいつの偽者だと譲らなかった。それがあいつの人格を無視することになると気付かずにだ。
 古泉に告白され、俺は自分を捨てて以来初めて、あいつではない俺、自分自身と向き合った。それで気付いたんだ、あいつの身代わりとしてだけでない、俺自 身も古泉のことを好きだ、ってことに。俺は、「かもしれない」じゃなく、きっぱり古泉のことが好きだってことにな。

「あの、時間がないってどういう?」
 俺に圧し掛かられたまま古泉が問ってくる。言葉にやや暗雲がかかる。
「…まさか、軍に呼び戻されたとか?あなたもしかして此処から居なくなるのですか?」
 見当違いな想像をして顔を青ざめる。違う、そうじゃない。
「出航が決まっただろう?俺達はペンタを目指しこの星から旅立つ。まだ申請段階だがハルヒが望んでいるんだ、一週間もあれば承認され、その翌日にでもテト ラを去ることになる。その前にお前はあいつを葬らないといけない」
「な…っ!」
「聞け!
 忘れろって言うんじゃない。むしろ永遠に留める為にだ。
 死んだ人間を、生きているかのように扱うのは悪だ。生きている俺たちが足止めされるという意味でも、そいつ自身ではない死後のそいつを抱え込む事はそい つの本来の人格を無視することになるという意味でもだ。だからお前はあいつと、決別しないといけない。
 普通、人が死んだらそういう決別は自然と出来るものだ。何たって目の前から居なくなるんだからな。
 だかお前には俺がいる。顔も、考えることも、あいつと酷似した俺が。しかもお前はここ暫く、俺をあいつの身代わりとして扱っていたし、俺自身も、あいつ の身代わりとして過ごしていた。
 あいつは死んで俺はこれからもお前と居る。その所為でお前はあいつの死が曖昧になっている。
 お前、俺のことが好きだろ?前は『好きになりかけているかもしれない』なんて曖昧な事を言っていたが、もう完全に俺を好きなはずだ。好きならどうした い?抱きたいだろう?何故抱かない。
 気持ちの整理が付かないんだろうなと思って見守っていたが、違う。お前は緩やかに、俺とあいつを入れ替えようとしているんだ。だがそれじゃダメだ。
 この星に居るうちに、何もかもが始まって終わったテトラで、お前はあいつと決別しなきゃならない。
 忘れろ、捨てろって言うんじゃない、区切りをつけろと言うんだ」
「…その為に…?」
「お前にとって俺とあいつとの一番の違いは、体を許したかどうかってことだ。だが身代わりにしていた分、お前はそれを混同し出している。あいつはお前に抱 かれなかった。俺はお前に抱かれた。遺伝子情報まで一緒な俺たちを区別するのはそこしかないだろう?そこをはっきりさせる為に、お前は俺を、俺として抱 け。あいつと俺をごっちゃにしたこの場所で、俺が俺であることを確かめろ」
「え…、ち、ちょっ…」
 抗議を許さずもう一度口を塞ぐ。舌技を駆使して…そう、古泉に教えられるまではまるで知らなかったテクニックで口内を蹂躙する。ちくしょう、こんな昇進 試験にも出ない技を教えやがって、責任を取れ。
 古泉はまだ戸惑っている。
 逃げるでなく寄るでなくぼやぼやしている舌がそれを告げる。体は固まり目は見開いたままだ。俺はディープキスを続けたまま古泉のアンダーシャツをたくし 上げ、着やせする胸板に手を這わせた。古泉はやや体をばたつかせたが、何にか躊躇い手を伸ばしかけ制止する。

 基本は、良いヤツだから。

 あいつの姿が頭に浮かび、声が聞こえる。
 俺に当てられた手紙の文面だった。
 古泉のことを好きで惚れていて、向こうもそうだから相思相愛だったがそのことに触れるわけにいかず、やたらと回りくどく核心をぼかした手紙だった。

 大事な仲間だ。
 長門や朝比奈さんや、ハルヒとは違った意味で、かけがえのない男だ。
 育った環境や課せられた任務から、素直に地を出すわけにはいかないし、少々底意地の悪い捻くれたところもある男だから、最初は少し戸惑うと思う。距離を 測り損ねると怪我をするだろう。そう、手負いの野良猫に迂闊に触ろうとして手酷く引っかかれるようにだ。
 だがそれは古泉が悪いんじゃない。お前…俺が嫌われているからでも、仲良くしたくないからでもない。ほんの少し、気難しい、臆病な子供と思えば良い。
 少々扱い辛いが悪い男ではない。俺は古泉のことを気に入っているし頼りにもしている。唯一無二の存在だとも思っている。だから、お前も最終的には気に入 るはずだ。癇癪起こして途中で見限らないでやって欲しい。絶対に、お前たちは良い関係が築けるようになる。途中どんな困難があってもだ。
 もし、「もうこいつとはやっていけない」と思っても、それは最終段階ではない。まだ途中なんだ。絶対に、古泉を見捨てないでやってくれ。あいつは、凄く 良いヤツなんだ。

 具体的なことは何一つ書かず、ただ、古泉は悪くない、良いヤツだ、そのうち懐くとだけ書き続けてあった。
 その文章全文が、その全文を手で打ち込むことが古泉宛のあいつのファイルを開くキーワードになっていたので、俺はそれを注意深く全文読んで打った。途中 ミスタイプがあると無効となり、また一から打ち込まなげばならず、お陰で3回打ち直した。4回も打ったものだから、あいつのその言葉は呪文のように俺の心 に染み、抜けなくなっていた。
 古泉は良いヤツだ。扱い辛いかもしれないが必ずそのうち打ち解ける。やがて誰より信頼出来る関係になる。
 その言葉は未来からの予言のように、確定事項として俺に溶け込んでいた。
 だからというわけではないかもしれないが、古泉には悪い印象は一切なかった。
 まだ手紙を開く前はその態度の悪さに戸惑ったが、一目で俺があいつではないと見破ったこと、それがあいつを特別視していたからだ(その時は“仲間意識” だと思っていたが)と分かったことで、むしろ好感を持っていた。
 手紙を読んでからはなおのこと。俺を邪険にする態度の一つ一つが、つまりあいつを特別視していた証明だってことで嬉しかった。
 それにしても報告書や手紙から受ける印象とは随分違うなとは思ったが、その疑問もあの時、氷解した。
 『好きだったのに…っ、彼を…』
 胸の奥から搾り出すような切ない声で、綺麗な顔をこれでもかと歪めて涙をぼろぼろ流した、あの時全てが分かった。

    お前、古泉のことが好きだったのか    

 古泉もあいつが好きだった。俺の、いざという時の身代わりとして作られたあいつのことが。惚れて、抱きたくて、だのに許されなかった。“俺”は決して堪 え性のある男ではないから、時期がくれば体ごと手に入っただろうに、その前に死んでしまった。入れ替わりにここにやってきた俺を、文字通り身代わりとして 扱い、欲をぶつけた。あいつ本人にであれば決してしないであろう力づくでだ。
 その後も古泉は、あたかもラブドールのように俺を抱いた。あえて俺自身の人格 を考えずに、惚れた恋人の代替品としてだ。
 そんな扱いをされて嫌じゃなかったかと問われれば、実は、最初から嫌悪はなかった。
 ケツを掘られて死ぬほど痛かったしかなりの出血も伴った。裂傷に効く薬はあったが、自分で塗るのが憚られる場所だったので大した治療は出来なかった。て めぇのケツの穴に指を突っ込むなんぞ、恥ずかしいわ気持ち悪いわ、こんな惨めな思いをするなら自然治癒にまかせた方がマシだと途中で投げ出した。そこいら 中噛み付かれ、力任せに体を開かれた所為であちこちが痛かった。
 …それでも、嫌ではなかった。心は喜びに打ち震えていた。抱かれたことが嬉しかったんじゃない。こんなにも古泉はあいつを愛していたんだ、そう思うと本 気で嬉しかったんだ。
 いざという時の保険として作られたあいつ。下手をすれば一生、培養カプセルの中で過ごさなければならなかったかもしれない俺の分身。折角日の下に出たか と思ったら、たった6ヶ月で死んでしまった薄幸の…。
 何の為に生まれ何の為に生きたのか、何か楽しかったか、生きる意義はあったのかと思うにつれやるせなかったが、古泉の猛った目を見て救われた。
 俺が20数年の人生で、一度も得られたことがなかった熱情、激情をお前は知ったのだ。古泉はお前を愛し、お前は古泉を愛した。この男はお前に、人が生涯 かけても得られないかもしれない熱愛を与えた…。そう思うと嬉しくて、俺の罪が少しは軽くなる気がして、心が震えた。
 古泉の想いはあいつに対しては慈悲と情に溢れた激しくもあまやかなものだったのだろうが、俺に対してはただの欲と暴力だった。優しさのかけらもなく、思 いやりの雫すら見えず、破壊欲と劣情だけを前面に出し俺を痛めつけたが、心は、心だけは満たされていた。
 そうか、お前、生きていたか。人生虚しいだけじゃなかったんだな…。


 暴力に等しき初めての性交が終わった後の、俺を見上げた古泉の瞳の虚無が忘れられない。あの時、初めて古泉はあいつの死を認めたんじゃないかと思う。ど れだけ欲を満たしても、同じ顔の相手を抱いても本当に想いをぶつけたい相手は既に居ないということを痛感したことだろう。
 言葉を探しているうちに、古泉が先に口を開いた。「何故抵抗しなかったのか」と。言えるわけがない。
 ただ、俺と話すうち、古泉の目に光が戻ってきた。それが、憎しみや自虐といったマイナスのものであったとしても虚無よりはマシだ。
 「この部屋に来たら必ず抱く」と古泉は言った。この部屋でだけは、俺は私人でありながらコピーではないからだそうだ。
 いいさ、お前が望むなら身代わりとして抱くが良い。ラブドールでも構わない。あいつは俺の代わりに死んだ、ある意味、俺はあいつのものだったからだ。
 …だがそれも、古泉が俺をあいつの身代わりだと思っていてこそだ。俺を、あいつとは違う人間と思っているのならば話は別だ。どうしても抱けなかったあい つと、出会って数日経たずにセックスした俺、夫々に重なる体験は殆ど無かった。違う人間であり乍ら、ダブることのない記憶は、そのまま一つの人格への統合 を導きかねない。つまり、古泉はあいつを俺と一続きに取り込んでしまう恐れがあるのだ。
 今まだ古泉は混乱している。俺に迂闊に手を伸ばせないのも、まだ気持ちの整理がついていないからだろう。初めは、古泉が納得するまで待とうと思っていた が、間違いだ。今ここで、まだあいつの思い出が強く残るテトラで、古泉は俺をあいつと分けないといけない。でないと、あいつとは過ごさなかった未知の世界 に発つ今後、古泉は俺とあいつを一緒くたにしてしまう。だから。
「僕はあなたとあの人を同一視したりはしません。…でも、あなたにはそうは見えないのですね?僕が二人を混同してしまうと。僕はそれほど危いのだと、あな たの目には映っているのですね?」
 そうだ。ハタからはよく見える。
「僕自身はそうしない自信はありますが…、百歩譲って、テトラにいる間にあなたとあの人を分けなければならないとしましょう。ですが、それで何故『抱け』 となるのですか?セックスでなければいけませんか?…それだけが、理由ですか?」
「…それは…」
 腕を掴まれ問われて心臓が跳ね上がった。
 静かな眼差しが俺を射て、心の奥の浅ましい欲望まで見透かされた気がして硬直する。
 …ああ、そうだ、古泉が俺とあいつを分ける為に必ずしもセックスの必要はない。
 いや、古泉は実は特別なことをしなくても、俺とあいつを別々に抱え込めるんじゃないかと思う。案外、そういうキャパは広い男じゃないかってな。
 むしろ俺だ。…俺が、このままじゃ、あいつと違う俺としてテトラで生きた記憶を残せない、それが嫌なんだ。「身代わりで良い」と思っていたし、むしろ俺 個人の人格はなくて良いと思っていた。だが古泉が…、こいつが、あいつではない俺を意識していると言う。だとしたら俺は、俺自身もあいつと俺は違うことを きっぱり認識しておかなければならない。…いや、責任転嫁だ。古泉がそうだからでなく、そう言われた俺が、古泉の中で俺を確立しておきたいと思った。…… いや、それすらもかこつけ、口実だ。
 俺が、あいつではない俺が、抱かれたいのだ、古泉に。
 あいつでなく俺が惚れられているというのなら、身代わりでなく俺自身を抱いて欲しい。あいつではなく俺を。まだ俺が、あいつとして抱かれたこのテトラに 居る内に…。
 それを自覚した途端、酷い自己嫌悪に襲われた。古泉の為とか、あいつの為とか言っておきながら、実はただのエゴじゃないか。古泉が俺を抱く必要なんて、 何処にもない。
「…すまん、忘れてくれ…」
 急に恥ずかしくなって、古泉の上から降りてとっとと退散しようとしたのに腕を強く掴まれてびくともしない。
「古泉?」
「何故、『抱け』だなんて言うのですか?」
「…悪かったよ、俺が間違っていた。お前はあいつと俺とをごっちゃになんかしない。…その、ちょっと勘違いして先走ったんだ。もう言わないから、忘れ て…」
「あの人の為に抱かれようとしたのですか?僕の為ですか?それだけですか?」
 そう責めてくれるな。どうにかしていたんだよ。テトラを発つって聞いて、俺自身と古泉との思い出があまりない事に気がついて、ちょっと焦ったんだって。
「俯かないで。僕の目を見て。あなたは何故僕に抱かれたいのですか?
 あなたが、他人の為…、僕やあの人の為に体を差し出すというのなら、僕は受入れられません。ですがもし、あなたが…。
 教えて下さい。あなたが僕に抱かれたいのは、あの人の為ですか?」
「………」
 驚いて顔を上げる。先ほどまでの戸惑いは影を潜めた、期待に濡れた艶めいた瞳とぶつかる。
 手が頬を滑りそのままおとがいに移り、そこを支点に体を起こす。目の高さが揃った。
 ねぇ、と甘い声で促され、俺の口は自然に音を発した。
「…お前が好きだ、古泉。だから、俺が抱かれたいんだ…」
 その言葉を聞いて、古泉は、難問を正答した教え子を称える教師のように柔らかに笑った。
 笑って、初めて俺に、口付けをくれた。






 立ち上がった性器を口に含まれ、悲鳴を上げる。悲鳴というか嬌声だ。
 古泉の愛撫は今までと全く違って、もどかしい程に優しく丹念だ。それまで暴力に近い荒々しい扱いしか受けていなかった俺は戸惑うばかりだ。
「やさぐれていましたから。すみません。でも本当は好きな人には優しくしたい質なんですよ。これまでのお詫びも兼ねて、精一杯ご奉仕させて戴きますので」
「…んな…、気を使うところが、ちが…あっっ!」
 古泉じゃないみたいだ。いや、間違いなく古泉なんだが、行動が予想外で戸惑う。まるで、今初めて抱かれている気がする。
 再び性器に落とされたねっとりとした舌の動きに血液が暴走する。久しぶりの情事に、溜まっていた俺は長くは持たない。
「…っ、く…っ、あ…っ!」
 強く吸い上げられあっさり果てた俺の精を古泉は残さず嚥下した。その手順は以前と同じはずなのに、あいつでなく俺がされていると思うといたたまれなくな る。
 古泉が触れているのは、あいつの身代わりでない俺だ。俺が口付けられ、俺のモノを舐められ、俺の精を飲まれたのだ。
「どうしました?」
 見上げる眼差しに憎しみはない。輝き火照る頬は穏やかな喜びだけをたたえていた。
「…見るな…」
「何故です?」
 恥ずかしいからだと、自分から誘っておいて、馬乗りになっておいて言えるものではない。紅潮した顔を背けると古泉は伸び上がって俺の頭を抱え、顔を覗き 込む形で目線を合わそうとした。
 憎悪や戸惑いのフィルターがかかっていない古泉の顔は破滅的に綺麗で、正視しきれない。
 こんな男に抱かれていたのか、俺は…。
「もしかして今更恥ずかしいのですか?」
 言い当てられた。そりゃそうだろう、自分でも分かる、俺は今耳まで真っ赤だ。
「…俺が、抱かれるのは初めてだから…」
 散々ヤりまくっておいて言うことじゃない気がするが、今まではこの体は俺であって俺じゃないと思っていた。抱かれていたのは俺じゃなかったんだ。ちく しょう、気持ち一つでここまで違うもんなのか?
 古泉の顔をまともに見ることが出来ず、俯くと、優しい仕草で頬を撫でられる。
「僕も、あなたを抱くのは初めてです。どうか僕を見て」
 懇願を含んだ甘く掠れた声に促されて顔を上げると、はにかみで頬を染めた珍しい表情が飛び込んできた。
「あの人でない、身代わりでないあなたを、僕は今抱きます。…本当を言うと、僕も少々恥ずかしいのですよ。今まで散々とり散らかった見苦しい姿を見せてい ますから、今更こうやって格好付けるのは」
「………」
 ついまじまじ目の前の色男を見つめる。
 照れて笑んでいた男の顔が、徐々に引き締まり、引き寄せられるようにして互いの顔が自然に寄った。
 唇で唇を塞ぎ舌を絡み合わせる。抱きしめられ、立ち上がった胸の突起同士が擦れてくすぐったい。右手は背中を抱え左足で膝を押さえ、右足で股間を広げ、 左手で性器を愛撫する。驚きの器用さだ。
 俺も古泉を感じたくて手を伸ばす。寛げた股間から飛び出た男根は赤黒く脈打ち張りつめていた。
 思わず、喉が鳴る。
 俺の手淫が合図だったように、古泉の左手が後ろに滑り、俺の後口を探り始めた。
 いつものように性急にかき回されるかと思えば、その手はまず入り口を擽り、指先だけを遠慮がちに埋め、撫でるように襞を探り中々核心に触れない。
「古泉っ!」
 俺はたまらず、悲鳴を上げる。もどかしすぎる。それは優しさではなく拷問だ。
「指はもう良い、お前で…」
「…え、ですが…」
「良いから!早く!これ以上待たせるな!」
 まだまごつく指を引き抜き、片手で古泉の性器を掴み、もう片手でその場所を広げて自分からあてがった。
 強引にねじ込もうとする俺を古泉は制し、ただ止めたわけでなく、俺の体をベッドに沈め腰をおし進めた。漸く満たされるとほっとしたのに、このバカときた ら気の弱い童貞が初めての挿入に戸惑うようにゆらゆらと腰を揺らすだけで、的外れも良いところだった。
 俺を抱くのは初めてでも、俺の体とは散々ヤっていただろうに。気持ちが変わったくらいでイイ所は変わるわけがないだろうが。何も知らなかった俺を開発し 尽くした手管はどこに行った。
「…ダメだ、古泉、そんなんじゃダメだ…っ」
 足を回して腰を引き寄せる。
「もっと、強く…っ、壊れても良いから、もっと…」
 もっと強くしろ。ちょっとやそっちじゃ傷付きゃしない。いや、傷付いても構わない。お前という存在を俺に刻み付けてくれ。
 腹に力を入れ、中を締め付ける。
「…っ!」
 そっちがまごつくならこちらから仕掛けてやると腰を動かそうとしたら、いきなり、古泉の動作が荒々しくなった。落ちていたブレーカーが上げられたよう に、一気に、古泉一樹が目覚めた。
 手も足も目も吐息すら、夫々意思を持った獰猛な獣と化し、俺を蹂躙する。だが恐怖も嫌悪もない。待っていた。俺が、こうされるのを。古泉の全霊をかけて 求められる時を。



「あ…、っ、こいず…、そこ…っ!」
 古泉を中で目一杯感じ、これでもかと穿たれ、快感に震え乍ら、俺は心の奥に消せないシミを見つけていた。
 この男は、俺のものじゃなかった。もともと、お前のものだった。お前が愛して、お前が愛されたのに。俺は後から来てお前から奪ってしまった…。
「…好きです…」
 その言葉を、手を、欲望を、誰よりも受け止めたかったのはお前だったはずだ。その権利があったのはお前だ。
「…好き、だ…」
 お前こそが言いたかった台詞だろうに。
 だのに俺は…、俺が後から来て全部持って行ってしまった。お前のものだったのに   
「…イき、ます…」
 激しく腰を打ち付けられ、やがて、熱い迸りを奥に感じつつ、俺の瞼はあいつの静かな面差しを浮かべ、喜びでない涙が、目じりから溢れた。

 お前、俺を憎んではいないか   

 気を失う瞬間浮かんだのは、思いを遂げた古泉への愛慕ではなく、薄倖の分身への問いかけだった。







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