レクイエム・後編



 予想した通り、ハルヒの申請はあっさり通って、SOS団はテトラを去りペンタに向かうことになった。
 出発は10日後。引継ぎやら出発準備やらを考えるとそれでも早急すぎるのだが、ハルヒにしては随分のんびりしている。
「あたしは明日にでも出発したかったんだけどね!国木田が後続との引継ぎがあるから待てって!『僕達は涼宮さんたちと違って、そこまで素早く動けないんだ』って、本当のことだとしても他の部隊に言っちゃダメよね!付け込まれるだけだわ!」
 あいつは弱味を見せたんじゃなくておべっかを使ったんだがな。まあ知らないほうが幸せだろう。
 とにかく、国木田のとりなしで、スケジュールに余裕が生まれたもんだから、俺たちは出発準備の他に思い思いの時間を持つことが出来た。
 あるものはお気に入りの風景を見納めにとピクニックに出かけ、あるものはペンタに落ち着くまでは機会はあるまいと巨大スクリーンで映画を楽んだ。
 俺はと言えば、一応幕僚だからして一般兵よりは忙しいが、それでも普段の高速回転っぷりを考えれば格段にのんびりした時間を持てていた。
 少々のんびりしすぎという気もする。

「こいずみっ!」
 スウェットに潜り込んでくる手を叩くと、首筋の辺りでふふふと笑い声がした。
 その声に含まれる艶を気付けないほど俺は鈍感ではない。
「今日はもうダメだって…!明日は引継ぎ隊が来るんだから…」
 暇さえあれば俺たちは、今までの溝を埋めんとばかりにくっ付きあっていた。暇があるがゆえにより疲れるハメになるという、とんだ矛盾だ。
 さっき、一緒にシャワー室に入って手で抜き合ったところだ。入れはしなかったが、かなり濃厚に…その、したのでそこそこ満足したはずだった。事後と風呂上りの倦怠感を燻らせたまま抱き合ってベッドに入った。今日はこのまま眠ろう、と暗黙の合意が取れたと思っていたが俺の勘違いだったか?
「いえ、僕も今日はこれで良いかと思っていたのですが、やはり明日引継ぎ隊が来るのを思い出しまして。ブリーフィングやら雑事が増えて、忙しくなるでしょう?シフトもずれて来るでしょうし。こうやって二人で、のんびり出来るのは最後かなぁと思いましたら居ても立ってもいられず」
「…ば…っ、あ…っ…」
 骨ばった大きな手が、信じられない繊細さと強引さで、俺の下腹部を攻め立てる。こうなってしまってはもうダメだ。もう片手は俺の臍の辺りで遊んでいるが、早くシャツを持ち上げ胸の突起を摘んで欲しくてうずうずしている。
 当然、古泉も分かっている。
 くすくすと、聞きようによっては意地の悪い、楽しそうな声で笑って項に唇を寄せてきた。
「…く、そ…っ、焦らすな…っ!」
「…仰せのままに」
 おどけた、涼しげな声で囁いて古泉は全身で俺を絡め取っていった。



***



 一通りの行為が終わり、今度こそ古泉は深い眠りに落ちた。
 俺も体も心も疲れきっていたが、心の中にある棘が疼いてすぐには眠れない。その棘は身を裂くほどの鋭さはなく、あえて探らなければ無視出来る程度のものだったが、俺は自責から向き合わないわけにはいかない。
 サイドライトが古泉の寝顔を薄ぼんやりと浮かび上がらせていた。
 古泉は全身裸で(俺もだ)、横向きになり両腕を俺の背に回して体を密着させて眠っている。
 寝顔は穏やかそのもので、この数ヶ月修羅場を演じてきたもののそれとは思えない。
 『好きです』
 言葉に出さずともその顔がそう言っている。
 『好きだ』
 俺も、同じような顔をしているのだろう。
 …俺と同じ顔をした、あいつもそうしていたように。
 途端に、胸が苦しくなり、涙が溢れそうになる。幸せだと感じると必ず、心の棘が暴れ出す。
 俺は、幸せで良いのだろうか。古泉を愛して、古泉に愛されて良いのだろうか。
 古泉にあまやかな眼差しを向けられる度、そこに幸せを見つける度に、あいつの無念を思わずにいられない。
 死んだ子の年を数えるのは詮無いことだと分かってはいる。あいつと俺とは別人で、別の人生だと思えば余計に、俺とあいつを重ねて見るのは悪だ、ってことはな。古泉だってそう言うだろう。
 …いや、古泉は関係ない。俺の問題だ。あいつが哀れだとか表面では思っておきながら、今此処に居るのが俺で、古泉に愛されているのは俺で良かった、そう思うさもしさが嫌なのだ。お前は俺だったかもしれないと思いつつ、俺で良かったと思ってしまう自分が。
 哀れに思いつつ、だがもし代われるのなら代わるかと言われれば首を立てには振れない。
 幸せだと思えば思うほど広がる、この胸のもやもやを、俺はもてあまし気味だった。
「………」
 目の前で古泉がすやすやと眠っている。ただ幸せそうに。
 この顔に見惚れている間は全てを忘れられた。
「…寝よ」
 踏ん切りをつける為に声に出す。明日からは忙しくなるのだ、最低限の疲れは取っておかなければならない。
 どうせすぐ答えの出ることではないのだ、今は、ただ今しなければいけないことを優先させよう、そう、最後は自分に言い聞かせて目を閉じる。
 ここ数日恒例となっている一連の就眠儀礼を終え、肉体的疲労の力を借り、俺はどうにか眠りに落ちた。



***



 朝か。
 瞼を刺激する光に誘導され目を開けると想定外に、白い壁に囲まれた無機質な部屋のベッドの上だった。
 隣に居るはずの古泉がいない。変わりに、ベッド脇に、良く見知った人物が立っていた。
 “見知った”とは言ったが俺はこいつを知らない。他人としてのこの男を知らない。俺がこの顔を見るのは、鏡、もしくはそれに準ずる夜の窓ガラスとか、何も映っていない映話モニタの中でだ。
 誰だ?いや、どっちだ。
 その可能性があったことを、今この人物を目の当たりにして初めて気がついた。そうだ、俺がオリジナルだなんて、どこにそんな証拠がある?
 男は目に強い意志をたたえたまま、苦しそうに顔を歪めた。
「…すまない」
 その声は、思っていたものと少し違う。ただ、俺だからこそ違うと思うのであって、他の誰が聞いても、そのものだと言うに違いない。
 俺は体を起こし、そいつを見上げる。
「お前が本当のオリジナルか?」
 自分でも驚くほど冷静な声だ。そいつ…、キョンはさらに顔を歪めた。
「俺は三番目か?」
 問い募ると、微かに首を横に振る。
「二体目だ。9ヶ月前の事故で死んだのが三体目」
「…いつから?」
「2年前。例の、イプシロン銀河の消滅事件の時だ。俺は酷く傷付き、これ以上ハルヒたちとはやっていけないと思った。それで、お前に託した…逃げた」
 ああ、そうか。事件の割には俺は早く立ち直ったものだと思ったが、使命やら仲間やら…色々あって落ち込んでいる暇はなかったと思っていたが、一辺壊れていたのか。俺は、痛みを取り除かれたコピーだったのか。
「俺と違ってお前は、ちゃんとやったんだな。…俺は、あいつをコピーと悟らせてしまった。だが俺は今まで自分がコピーだって気が付かなかった。お前、上手くやったよな」
 だが今気付いた。本物のオリジナルのキョンが現れた。俺は、俺もコピーだったのだ。
 笑いたい衝動を抑えてオリジナルを見上げ、何故今なんだと目で問う。
「バグが発見された」
「………」
「俺は、戻らないといけない。…お前と、入れ替わる必要がある」
 だと思った。
 どんなバグかは聞かない。聞いても分からないだろうし、分かるバグなら聞かない方が精神衛生上も良い。一旦表舞台から退いたオリジナルを引っ張り出す必要があるくらいだ、ろくなもんじゃないだろう。
「他の幕僚たちは了解しているのか?」
「入れ替わりが完了してから話す。混乱させたくはないし、口出しをされても困る」
 軍主体のことか。もちろん、帝国とは話が付いているのだろう。
「別れの挨拶は?…その、こっそりとで良い」
 最期に皆の顔を見ておきたい。見て、焼き付けておきたい。
 だがオリジナルは無情にはねつける。
「許可出来ない。知ってしまったお前を、接触させるわけにはいかない」
「…そっか…」
「…すまない…」
 そんな顔をするな。俺はお前だ、良く分かる。自分の与り知らぬ所で作られたコピーと言え、自分の勝手で目覚めさせてしまった上、誰の都合でだか知らないが人生を取り上げることになっちまった。その辛さはよく分かる。俺も一辺やったからな。
 憐憫と悔恨。俺の所為で生まれてしまった命、せめて人として生きて欲しいという思いもあって世に放った。俺の代わりでもお前はお前だ、お前の思うように生きろよと、巣箱から出し飛び立たせたのに、その自由を謳歌させる間もなく、その生を絶つハメになった。なまじ、僅かばかりでも世界を知らせただけ、また、生も滅も己の人為によるだけ、心痛ありあまることだろう。
 良く、分かるとも。
 俺の方こそ哀れに思ってヤツの顔を眺めていると、ヤツは、鉄の意志力で仮面を被った。
「この場から、君は直接主星に向かう。俺はテトラに。
 …何か伝えることはあるか」
 主語をあえてぼかす。引継ぎにみせかけたこいつの優しさだ。テトラの皆に伝言をと言うのだろう?何か伝えたいことはないかと。
 だが二度と会えぬ身で何を伝えろと?俺は去るが俺は居る。俺の思うことは俺が伝える。これからもだ。例えその俺が俺でなくても、その俺は俺だ。仲間達には、お前の言葉で足りる。
 だが。
「…古泉、な」
「古泉?幕僚総長?」
「そう。お前、あいつとは面識ないだろう?あいつ、一見人当たりが良くて、優しい男に見えるけど、で、報告書ではそうなっているだろうが、本当は結構神経質で扱い難い男なんだ。S機関所属らしく、帝国に含みがあるから、コピー技術とか、結構嫌っている。最初はお前に辛く当たると思う。対立したり、嫌悪感まるだしにしたりな。…でも、本当は凄く良いヤツなんだ…。一旦親しくなれば、これ以上頼りになる男はいない。俺も、最初はちょっと戸惑ったけど、打ち解けたらなんてことはなかった。すぐ、好きになった。凄く大事な…友人なんだ。だからお前も、長い目で見て気長に付き合ってやってくれ」
「…分かった」
 言葉とは裏腹に訝しげな顔だ。そりゃそうだ。何で俺がそんなに古泉を気にかけるか分かるまい。恋人だったから、お前もよろしく付き合ってくれとは俺は言えない。
「で、古泉にな」
「うん?」
「お前のことを頼む。邪険にするな、と言ってくれ」
 俺がいなくなったのをオリジナルの所為にするだろう。あいつはそういう可愛い狭量さを持つ男だ。言ったところで押さえ込めるとは思えんが、ちょっとした防波堤にはなるだろう。
「古泉のことばかりだな。他はないのか?」
「…ない。あとはお前ならやれるさ」
 なんたってオリジナルだもんな。お前は俺だ。
 暫し俺を見つめた後、オリジナルは仮面を被ったままもう一度、言う。
「…本当に、すまない」
 生まれさせたこと、カプセルから出したこと、コピーと知らせたこと、生を与えておきながら奪うこと。
 何もかにも謝罪をし、深く頭をたれる。
 謝るな。
 俺はこいつを抱きしめたくなる。
 謝らなくて良い。俺は、楽しかった。ひと時でも自分の目で手で足で声で、世界を味わえて本当に、良かった。…人を愛した。俺自身で、古泉を選んだ。古泉を愛した。あいつを好きになれて、本当に良かった。培養カプセルで過ごしていれば、絶対味わえなかった喜びだ。そりゃ、出来ればずっと一緒に居たかったけれど、そういうことなら仕方がないさ。
 古泉をまた一人にするのは心配だけど、そのうちあいつはお前を愛する。迷って悩んで、それでもお前の手を取る。その時お前も愛を知れ。
 古泉なら大丈夫。三人分受け止める度量はあるし、お前を愛しても俺を忘れない。お前を愛して、俺を常に思い出す。だから、寂しくはない。
 俺は幸せだった。
 たとえ、短い間でも、この世に出られて本当に幸せだった。
 だから、悔やんでくれるな。
 ありがとよ、と微笑もうとするが、体の力が抜けて口が開けない。もしてかしたらこれがバグなのかな。
 脳みそに霞がかかり、溶けていく感覚がする。すうぅぅぅぅと、視界が狭まる。まだ悔恨を拭えない顔をする、もう一人の俺を前に、俺は、かつてないほど穏やかな気分だった…。






「…さん!大丈夫ですか?   さん!」
 がくがくと体が揺さぶられ、気が付くと古泉が不安げな顔で俺を見下ろしている。
「…あれ…?」
 オリジナルは?俺は?
 見渡すと、淡い空色の天井やら書類の散らかった机やら、ユニフォームやアンダーシャツが散らばった床が目に入る。
「…夢…?」
「どんな辛い夢を見たのです?そんなに泣いて」
 言われて頬に手を当てると、確かに濡れていた。…そうか、あれは夢だったのか。
 俺はコピーじゃなかったのか…。…いや。
「悲しい夢ですか?それとも、苦しい夢?」
「…や…」
 悲しくも苦しくもなかった。ないと思っていた。
「なんとか言って…うわっ」
 古泉を力任せに抱きしめる。…暖かい。心音が聞こえる。
「…あの?」
「古泉、コピーは俺だよな。俺とコピーは同じ感覚を持つ人間だ。そうだよな?」
「………。…遺伝情報はそうですが、人格は決して…」
 違う、別人なのは分かっている。
「コピーがオリジナルに対してどう思うか、俺がコピーだったらどう思うか、あいつの立場だったらどうか、ってのは同じだ。違うか?」
 少なくとも、オリジナルがコピーに対して抱く気持ちは、コピーであった俺は正確に読み取った。
 俺は俺だがあの時…夢の中では俺は完全にコピーだった。俺が思ったことは、あいつが思ったことでもあったんだ…。
「古泉」
「なんでしょう?」
 まだ戸惑う男の、澄んだ綺麗な目を見つめる。
「あいつは、ほんの少しの時間でも、生きていられて幸せだった。お前を愛して、お前に愛されて、それだけで生きていて良かったと思っていた」
「…はあ」
 なんだ、何をきょとんとしている。随分反応が鈍いじゃないか。
「いえ、ですがそれは僕はあなたの正体を問い詰めた時に言いましたよね?手紙にもそう書いてありましたし、僕もそれは分かっていました」
「…」
 そうだったか?まああの時は俺もテンパっていて、お前の言葉をちゃんと聞けていなかったからな。聞いても、そんなものは生き残ったものの勝手だと受け容れられなかっただろう。だが今は違う。俺は正しくあいつの言葉を伝えることが出来る。
「古泉、お前が幸せになることがあいつの願いだ。
 俺はお前に出会って、お前を愛して幸せだし良かったと思っている。だから、お前も俺で…、俺と、幸せになろう」
 聞きようによっては酷く傲慢な、だがこの上なく謙虚な気持ちで告げると、古泉は先ず目を見開き、それから花がほころぶようにして柔らかに笑った。
「あなたのプロポーズ、しっかりと受け取りました」
 そんな甘ったるいものをしたつもりはなかったが、的は大きくは外れてはいまい。
 生きていく限り、幸せを感じる度に俺はあいつを思い出すだろう。思い出し、後悔する。それでも、古泉の幸せがあいつの望みで、その幸せが俺によってもたらされる限りは俺は償い続けることが出来るだろう。
 だから。
「愛している」
 二人分の想いを込め、逝った一つの魂を背負いつつ共に歩む覚悟をした男を、俺は強く抱きしめた。