17.帰還


 その日のテトラは、星全体が浮ついた緊張感に包まれていた。
 いつもは交代で、3分の1の人員が常に休暇中だったが、今日ばかりは全員が宇宙港に集結している。皆、式典用の軍服を着用し、着鑑した船を取り囲むよう にして一列に並んでいた。
 三ヶ月前、テトラを出港した戦艦のハッチが開いた。
 ひゅん、とそこから風が突進して来る錯覚に見回れる。虹色に輝く覇気が帯となり空間を駆ける。
 朱の軍服と、焦げ茶の髪、トレードマークの黄色いリボン。
「みんな!今帰ったわよ!あたしが居なくて寂しかったでしょ!」
 涼宮閣下が、テトラに帰って来た。


 いの一番にタラップを駆け下りた彼女は、残留組を代表する形で一歩前に出て待ち受けていた僕たちの下に真っ直ぐ向かってきた。
「古泉幕僚総長!留守番ご苦労様!大したトラブルはなかったようね。さすがあたしの見込んだ男だわ!」
「いえ、僕など閣下の足元にも及びません」
 あの恐ろしい事故のみならず、軍曹銃殺の件すら完全にもみ消された。軍曹は、病気を理由に退役、SOS団からも退団した、ということになっている。閣下 の遠隔決済も取ってあるので知っているはずだが、下官の入れ替わりの激しい部隊なので、さして気に留めていないようだった。
 続いて彼女は僕の隣に居る彼に体を向ける。心なしか彼女の方が身構えているようだった。
「あんたは色々やらかしたみたいね」
「主星での事故のことなら俺の所為じゃないぞ」
「団長の留守にひょこひょこ持ち場を離れて主星に行ったのが問題なのよ。幕僚としての自覚あんの?」
 言葉尻に険が隠っている。不味い。
 彼の事故  主星で巻き込まれたことにしてある虚偽の  についてはギリギリまで伏せていた。涼宮さんに伝えたのは帰還の途についてから。どう急いでも 日程は変わらないという直前の段階でだった。二ヶ月近く彼女の耳に入れなかったのはそのように上から指示されたから、と国木田長官が言い含めてくれたらしい が、黙っていたことに対する怒りはあるだろう。上からどう命令されようがあたしにはこっそり伝えるのが筋ってもんでしょう!と思っているだろうことは想像 が付く。
 出発前にあった、二人の間のぎくしゃくした雰囲気も払拭されていないのかもしれない。すっと、辺りの空気が冷えた。
「上の指示だ。仕方あるまい。軍人ってのは上官には逆らえないように出来てるんだ」
「軍での階級なんか関係あるもんですか!我がSOS団はあたしの指示のみで動くのよ!」
「だったらお前がもう少し下の面倒を見ろ」
「何ですって?」
「俺達を置いて行くなと言っている。面白いことをするなら混ぜろ。お前が居ないテトラは静かでのんびりしていたが、少々物足りなくもあったぞ。
 …お帰り、ハルヒ、遠征の土産話を聞かせてくれ」
 最後の一言ははっとするほど慈愛のこもった優しい声だった。大地を覆った根雪を一瞬で溶かし、花を咲かせるような、そんな。
「…やけに殊勝じゃない。事故で頭を打った?するわよ!報告!ただし、みんなの前でね!あたしの輝かしい武勇伝の数々、とくと聞いてごらんじろ!てなもの よ!」
 からからと笑う涼宮さんからは、不機嫌が消えていた。
 僕は驚いて彼を見る。まるで手品でも見た気分だ。彼は部下たちの輪に入っていった涼宮さんを慈しむ目で眺めていた。
「キョンくん…」
「お帰りなさい、朝比奈さん。長門も。ハルヒのお供は大変だっただろう」
「キョンくん、あたし…」
「話は後で。今は無事を祝わせて下さい」
 小声で告げる彼に、朝比奈みくるは不安をたたえた目で、それでも頷いた。少しいらっとする。話というのは入れ替わりのことだろう。朝比奈みくると長門有希に は伝えてあると聞いた。ただだとしたら今ここで不安を覗かせるのは不用意で無神経ではないか。心細いのも大変なのも彼だ。事情を知る僕たちは支えていかな ければならないというのに、何を被害者面しているのか。
 一方の長門有希は相変わらずの無表情だ。彼に何か小声で声をかけた。唇の動きは見えたけれど、解読は出来なかった。何を言っていたのか聞こえなかった が、眼に映った口元に漠とした違和感を憶えた。

 結論から言うと、涼宮さんは彼が別人であることに気が付かなかった。それどころか、出発前にあった確執は何処へやら。以前より親密になったようにすら見 えた。
 距離を置いて涼宮さんが冷静になったということか。それとも、あの人と彼の間にある僅かなズレが良い方に作用し、ずれた分が都合良く亀裂を埋めたのか。
 …その件に関しては心当たりがある。
 あの人と涼宮さんがぎくしゃくし出したのは僕がSOS団に入ってしばらくしてから。僕とあの人との距離が背徳的に縮まった頃からだ。つまり、あの人 が、彼女以外の誰かを愛した、それを敏感に察知した彼女の嫉妬が、わだかまりの種だったのだ。だがこの人にはその種となる情はない。つまり、僕を愛しては いない。だから、そこから芽が出た彼女との不和も存在しない。そういうことなのだろう。
 『古泉…』
 涼宮さんには決して見せなかった、僕にだけ見せた甘い笑みが浮かぶ。
 今の彼は、あの微笑みは持っていない…。


***


 三日ほどは遠征の事後処理の為、基地全体が雑然としていたが今は落ち着いて日常を取り戻している。閣下が惑星中を視察し、飛び回り、彼がその後に付き時 には諫め、時には追従し。賑やかな、それでもそれすらも穏やかな日常だった。
 やがてまた閣下の思いつきの下、様々な活動が開始されるだろうが  そして今度は間違いなく彼も一緒だ  今暫くは彼女も大人しくしているだろう。
 起きる。ミーティングルームに行く。仕事をする。ミーティングルームに行く。眠る。
 日のうち四人全員が顔を付き合わせているのは二時間程度だったが、彼と話す涼宮さんはいつも上機嫌だった。思いの外役に立たない人だ。
 僕は彼女に期待していた。
 この関係をぶち壊してくれることを望んでいたのだ。
 彼を見、僕がそうしたように一瞬で、「あんた誰?キョンじゃないわね!?」と見破り、軍や帝国の浅薄な策を咎め、彼を更迭するなり世界を滅ぼすなりして くれると期待していたのだ。最悪、受け入れてくれても良い。あの人の死を認めた上で、彼を別人として迎え入れるならそれはそれで一興だっただろう。僕も、 心の折り合いが付けられただろうに。
 だのに、涼宮さんは彼を昔から居るSOS団の作戦参謀と信じて疑っていない。
   哀れだ。
 自分の知らないところで、自分が関わる世界が大きく動いている。生き様を監視され、好きな人の生き死ににすら関われない。歪められ伝えられる。大切な人 の死に立ち会えなかっただけでない。死んだことすら知らされず、全くの別人と入れ替わられている。こんな残酷な仕打ちはない。何と哀しいことか。
 事情を知る未来人とアンドロイドは各々の利害に則りそ知らぬフリを通す。何事もなかったかのように彼を彼として扱うのが一番のフォローだと思っているか ら。
 僕も、幕僚総長の仮面を被り、にこやかに微笑む。彼とも話す。差し向かいでゲームをする。それでも、決して部屋には招かないし彼の部屋にも行かない。 「もうあなたは完璧です」と、コピーと話す事は何もないからと暗に告げて。気遣わしげな彼の眼差しは無視をした。
 笑い仮面の下、僕の心は鎮火した火山が見捨てた溶岩石のようにどんどん色を亡くし、萎縮し、冷えていくのを感じていた。


***


 何となくぼうっとしていて計器の操作をミスしたところを涼宮さんに見つかった。
 彼女は咎めず、「疲れているみたいだから今日はもう上がって良いわ。顔色が随分悪いわよ。この後はあたしたちでやっておくから」と気遣ってくれた。その 時の幕僚の勤務は涼宮閣下と長門有希と僕。朝比奈みくるはオフで、僕はあと一時間もすれば彼と交代のはずだった。急ぎの仕事もなかったので、お言葉に甘えて 引っ込むことにする。
 居住区に戻ると、給湯室で彼と朝比奈みくるが何やら話し込んでいるのが見え、思わず身を隠す。オープンスペースでのことだ、気にせず通りすがれば良かった のかもしれないが、深刻そうな雰囲気だったので何となく憚られたのだ。
 この位置からだと彼は完全に後ろ姿で、朝比奈さんも斜めからしか見えない。何を言っているのか聞き取れなかったが、主導権は彼が握っているらしい。朝比 奈さんは殆ど口を挟まず、時折「え」とか「あっ」という風に口を広げる。やがてみるみる顔を歪め、ぽろぽろと涙を零し、泣きじゃくり出した。彼は慌てたが 完全に想定外というわけではなかったらしい。用意していたハンカチを差し出し声をかける。朝比奈さんが頷く。しゃくり上げ乍ら何かを言う。見てはいけない ものを見ている自覚はあったが足が動かない。あの人たちは一体何を話しているというのだ?
 やがて朝比奈さんは涙を止めて彼に何か言った。口の形からして「ありがとう」だろう。身を返し給湯室を出てくるので慌てたが、彼女は僕に気付かず僕の居 たのとは反対側の彼女の私室の方に向かった。彼女が部屋に入るのを確認してから、まだ彼の残る給湯室に足を踏み入れた。
「もう交代時間だったか?」
「あと40分ほどです。ちょっと体調が悪そうだということで、早上がりを命じられました」
「じゃあ俺は早めに行っておくか。しっかり休めよ」
「朝比奈さんと何をお話でした?いや、朝比奈さんに何を話していたのです?」
 腕を掴んで引き留めると、彼は長門さんのように、深すぎて読めない目で僕を見上げた。
「…盗み聞きか?」
「オープンスペースで話されていてその言い種はないはずです」
「お前には関係ないことだ」
「僕はそう判断しませんでしたけどね。あなたは“未来人と”話をされていたのでしょう」
「にしてもこんなところで言えることじゃない。仕事が終わってから、お前の部屋でなら話してやる」
「…っ!…では、朝比奈さんに伺います。よろしいですか」
 手を解いた僕に、彼は諦めのため息を漏らす。
「無理強いはするなよ」

 彼が去ったあと僕はここ最近馴染みとなった妙な浮遊感に見まわれる。
 地に足がついていない、軸がどこか傾いている気がするのだ。何かがずれている、間違っている。パラレルワールドに飛ばされたらこんな感じだろう か。
 休めと言われても私室に漂う微かに隠微な閉塞感は気詰まりで、足は自然にミーティングルームに向かった。
 そこは、どの場所より涼宮さんの恩恵を受けている、有無を言わせぬ清々しさに満ちた場所だった。
 昨日から打ち掛けてあるボードゲームが机の上に広げられたままだった。その脇、いつもの席に座ると見るともなしに盤上を眺める。コマを置いた彼の手の幻 影が見える。あれは、彼の手だ。どちらの彼でもない。ただ、彼の手。
 幻のその手に触れようと手を伸ばした時、ドアロックが解除される音がして、朝比奈みくるが入って来た。
「ふわ…、古泉君?」
「ちょっと疲れたもので、早上がりさせて戴きました」
「そうなんですかぁ。あ、お茶飲みますか?リラックス効果があるハーブティーがあるんですよ」
「…ありがとうございます」
 彼女の様子は普段と代わりはない。先程までの泣き顔はすっかりナリを潜めている。むしろいつもより元気なようだった。
 感情の切り替えが上手い人ではないから、してみると先程の話は彼女にとっては朗報だったのだろうか。
 ハーブティーを机に置かれた所で尋ねてみる。
「先程はどんな話をされていたのです?」
「え?さっき?」
「作戦参謀と給湯室で。深刻なお話だったようですが」
「…えっと…」
 話して良いものか、思案しているようだった。
「たまたま通りかかったのですが、彼に聞きましたら朝比奈さんに聞け、と言われました。今から任務だから、と」
 端折りはしたが嘘ではない。
 …そうですか?じゃあ話しても良いのかなぁ、でも…、と、まだ迷っていたので軽くカマをかけてみる。
「未来人のことですよね?」
 僕の言ったのはあの軍曹のことで、実は的外れだったのだが彼女は都合良く勘違いしてくれた。ぱっと顔を赤らめる。
「そうなんです。キョンくんが、未来からの伝言を預かってくれていたんです」
「…伝言…?」
「主星に居た時頼まれたんですって。あたしよりもうちょっと後の時代の人で、ついこの間この時代に来たばかりの人なんですって。名前も目的も、詳しいこと は言えないけど、あたしに、『あなたの頑張りは知っている。いつも見守っている。まだ今は無理だけど、時期が来れば必ず迎えに来るから、それまで挫けない で』って伝えてくれって言われたんだそうです。
 あたし、嬉しくて…。あたしは全然役立たずだと思っていたのに、全然任務を果たせていないと思っていたのに、とっくに見捨てられたんじゃないかって思っ ていたのに、ずっと見ていてくれたって…、あたしのこと、ちゃんと見ていてくれている人がいる。そう思ったら、凄く嬉しくて…」
 なるほど、ではあれはうれし涙か。
 やがて帰れると分かったから、ではないところが彼女らしい。
 しかしいつの間にそんな接触が?一体どこにそんな暇が?
「その未来人はやはり軍の預かりの方ですか?もしくは帝国の」
「いえ、軍や帝国には内密の来訪だそうです。人気のないところでこっそり接触されたそうです。あ、だから古泉君も内緒にしておいて下さいね?」
 唐突に、ぶれていた世界の軸が正された気がした。
 今まで見えていなかった光景が像を結ぶ。開いた窓から流れ込んだ風景が津波のように押し寄せて来た。
「…古泉くん?」
「…申し訳ありません、少々目眩が。部屋で休んで来ます。お茶、戴けなくてすみません」
「いえ、あたしこそ気が利かなくて。あの、お薬とか」
「お気になさいませんよう。大丈夫です、ただの疲労ですから」
 なおざりに礼を言い私室に戻る。だがベッドには行かない。ジャケットを脱ぐ時間すらもどかしく携帯端末を立ち上げ思い付くファイルに片端からアクセスし た。


***


「今からあなたの部屋に伺ってよろしいですか?」
 仕事を終えた彼を捕まえ問う。彼は眉一つ動かさず、「良いぜ」と返して僕を部屋に招き入れた。
「で、用件は何だ?」
 ソファを勧められたが、座らなかった。彼は椅子に腰掛けたので、勢い、見下ろすことになる。
 濃い焦げ茶の目、深く強い光。ああ、確かにあの人とは違う。何でこんな簡単なからくりに気が付かなかったのだろう。
 涼宮さんの心の揺れ、接触した未来人、周囲の順応、そして、あのアンドロイド。
 すうっと、息を吸う。一旦全てを遮断するように目を閉じ、開ける。
 再び視界に現れた彼を、見下ろす。
「あなたの方が、オリジナルですね?」
 口角が上がる。僕は微笑んでいる。微笑んでいるが笑ってはいない。
 彼は、何も包み隠すことはないという、開けっぴろげで真っ直ぐな目で僕を見上げた。一点の曇りのない、真摯な眼差し。
 口が開いた。
 低い、余計な力は一切隠っていない、静かな声が発せられる。
「ああ。そうだ」 
 長門有希は、帰還の時彼に言ったのだ。「おかえりなさい」と。
 あまりにその場に相応しくない言葉だったので、解読し損ねていた。
 だが彼女は言ったのだ。全てを知るあのガーディアンは。「ただいま」ではなく「おかえりなさい」と。ほんの数ヶ月ほど、基地を留守をしていた仲間を迎えるように…。



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