9.身代わり


 バカばかりだ。
 節穴だらけだ。
 めくらども、つんぼども。
 何が正しくて何が嘘か、見抜く目はないのか。その耳は違和感をとらえないのか。
 何故、誰も気付かないのか。下手な茶番を信じるのか。
 あの人ではない、そのことに誰も気付かないのなら、あの人の死が、生が終わったことが、生きたことが全て、無かったことになるというのか   


***


 復帰二日目。作戦参謀はソツなく仕事をこなしている。
 酸素欠乏症でここ6ヶ月の記憶があやふやだと言われた団員たちは、心配こそしたが誰も怪しみはしなかった。おかえりなさい、閣下ばかりでなく作戦参謀も 居ないテトラは火が消えたようでした、寂しかったですよと口々に話しかけられ、彼に決済を仰がなければならないものだけでなく、話しかける口実として彼で なくても判断できる仕事がひっきりなしに持ち込まれてきた。
 彼は一つ一つ的確に処理をしていく。軽口には軽口で、決済は熟考の上許可,不許可を、人生相談めいた照会には穏やかな助言と励ましを。前日までと は打って変わって基地内は賑やかさを取り戻した。
 事情を知っている(と思っている)唯一の部下は、目を潤ませ満干の思いのこもった顔で「お帰りなさい」と言った。周囲に人目がなければ彼を抱きしめ号泣 していたことだろう。
 6ヶ月の記憶があやふやだということは一瞬で忘れ去られた。彼は瞬く間に基地に馴染んだ。実際は一度も足を踏み入れたことのない場所に我が物顔で立ち、 一言も言葉を交わしたことのなかった部下たちと共通の話題で談笑した。
 それは、僕にとっては希少な宝石のように輝く思い出のつまった期間が、取るに足らないものだと言われている気がした。
 この二日、僕は常に彼に付いて回った。病み上がりを気遣うというのが表向き。実は、へまをしないか、ボロを出さないか監視しつつフォローするという理由 で。僕は密かに彼が失敗することを望んでいた。何かしでかしそれ見たことか所詮はコピーと溜飲を下げ、それからフォローするつもりだった。あの人はそうではあ りませんでした、涼宮さんが帰ってくるまでに擬態を完璧にして下さいと言い放つつもりでいた。急にそうしろと言われて成れるほど、あの人は簡単な人ではな かったと思っているのに、このコピーは全くソツがない。
「あれ?この花…」
 昼食を取る為に入った食堂で、窓際に鎮座した鉢植えに反応する。彼の一挙手一投足を見守りつつ、無駄な声はかけないよう気を使っていた団員の一人がすわ きっかけだとばかりにさっと寄って来る。
「A地区に群生していたものです」
「だよな。例の噴火の時に全滅したはずじゃなかったか?」
「二ヶ月前、火山灰の下から球根を取り出したんですよ。参謀が指揮を執られたんですが…、それもご記憶にないんですね?」
 気遣うような、探るような目を向ける部下に、彼は「俺が?」と純粋に驚いてみせる。
「へえ、そうか…。あの群生地はハルヒたちも気に入っていて残念がっていたが…。また咲かせることが出来たか。良かったな」
 愛しげに、まだ蕾の花を見つめ、彼はあまりにも柔らかく笑んだ。庇護欲をかき立てるものによく見せた微笑みで、基地猫のシャミセンや先輩格の朝比奈みく る、閣下の横暴に戸惑いつつも必死に仕事をこなそうとする新任下士官に良く見せていた顔だった。
 火山噴火は7ヶ月前のことで、僕は遭遇していないがこの花の球根が見つかった時は行動を共にしていた。「よく頑張ったな、また咲かせてやるから」と今と 同じ笑顔を見せていた。
「同じ場所には無理ですけど、また群生させてみせますよ」
「そうか、頼むよ」
 言われた部下は破願する。
 彼の帰還をこの部下は今実感しただろう。彼は、正しく彼だった。

 僕に向かっている時感じる違和感を、他の団員や基地猫のシャミセンと接している時ですら、まるで感じなかった。
 彼は、彼だった。
 涼宮閣下の幼馴染にしてお気に入り。このSOS団の作戦参謀。まだ若いのにどこか達観した、穏やかでいて芯の強い懐の深い人。
 僕は混乱する。
 彼は、彼でないのに彼だ。彼なのに彼ではない。
 初対面の時は瞬時に別物と見抜いたというのに、彼を見ていると僕の記憶の中の彼は僕が作り上げた妄想で、実在しなかったのではないかと思える時すらあ る。邪な劣情を持った僕が生み出した白昼夢だったのではないかと。…いや、彼は確かに居た。居て、目の前のこの人とは違う存在だった。彼は唯一彼で、かけ がえの無い人だったのに。
『幕僚総長、こちらへ』
 人前では決して名を呼ばなかった。鹿爪らしい顔を崩さないものだから、可笑しくて愛しくて…。その顔が今のコピーのそれと重なる。つまり、パブリックな 顔は二人一緒、もしくはさしで変わらないということだ。彼を思い出そうとして浮かべた部下に見せた顔が、コピーのそれと見分けが付かず愕然とした。
 彼の記憶が薄れていくことに恐怖する。彼を、どんな彼も彼として僕は憶えておきたい。その輪郭が目の前の異体とぼやけ重なりつつあることを嫌悪し、そう させる存在を僕は…。
「古泉、大丈夫か?」
 いつの間にか壁にもたれかかっていた。
 彼が覗き込んでくる。気遣わしげな優しい顔。彼そのものだ。
「…すいません、少々寝不足でして…」
「例のアレか?」
 声を潜める。涼宮さんのストレスの事だと察せられたがこの人と僕とはその隠語が通じ合う仲ではないはずだ。
 僕が、この人を通してあの人を見ているのと同じように、この人もまた僕を通して僕と同じ役割だった別の人  前任者  を見ているのだと分かると、途端 に気分が悪くなった。
「ちょっと部屋で休んできます」
「…ああ、気をつけてな」
 後で様子を見に行くからという声には応えず、私室に戻りベッドに体を投げ出した。胸が苦しかったのでジャケットを脱ぎ体を寛げたが治まらない。当然だ。 これは体ではない、心の痛みだ。

 僕は彼をどう扱えば良いのだろう。
 一旦は、彼を彼として扱うと決めた。正しくは彼という役割として。あの人自身に代わりはいない、そう確信していたから、逆に役割だけ誰かに投影するのも 容易いと思っていた。
 ところが彼は紛れもなく彼で、扱うも何も努めて意識しなければ別物だと認識できない自分がいる。
 それは、彼に対する背信だ。僕だけは彼を忘れてはならないのに。入れ替わりを知らない周囲、知りつつ認め彼を忘れようとしている上層部。僕が憶えていな くて、誰があの人を?

 ドアホンが鳴った。
 彼だろう。
 予想できたが会いたくはなかった。眠ったふりをしてやり過ごそう。
 もう一度、ドアホン。
 聞こえない。僕は眠っているのだ。
 無視を決め込んでいると腕の携帯端末のアラームが鳴り、ドアの外にいる人からの通信を告げる。
 しつこい、鳴り止まない。
 中に入れてさっさと追い返した方が早いと判断し、起き上がってドアロックを解除した。
「疲れているのですが」
「聴取を済ませたら開放してやるよ」
 半ば強引に、彼は部屋へ入って来た。諦めて椅子を勧める。僕は向かい合う形でベッドに腰掛けた。
「ハルヒのアレで体調が優れないわけではないんだな?」
「涼宮さんは今、比較的落ち着いていらっしゃいます。時々発作的にストレスをお感じですが、眠り番のちょっとした介入で収まる軽微なものですし、僕は今は 基地の維持が優先とのことで暫くはお役目は免除されておりますので」
「体をどこか悪くしたということは?」
「いたって、健康です。肉体はね」
「じゃあ、心の問題か?」
「………」
 どう答えろと言うのだろう。あなたを扱いあぐんで戸惑っているのだと?何故扱いあぐんでいるかの本当の理由も言えと?
 逃げを許さない真摯な目が僕を捕らえて離さない。
「…俺の、所為か…?」
 そうですよと反射的に答えそうになるのを押し留める。さりとて、誤魔化すだけの知恵も巡らない。押し黙っていると、彼が椅子を引き一歩寄る。
「俺はお前に何か迷惑をかけているか?上手くやっているつもりだが何かおかしいか?不味いところがあるなら今のうちに言ってくれ。些細な事でもだ。改善の 努力はする」
「…あなたには、関係ありません…」
 そう、これは僕の問題だ。僕自身で解決しなければならないことなのだから、放っておいて欲しい。
 だのに彼はそれを許さず首を横に振る。
「そういうわけにはいかない」
「…どうして…っ!」
 あなたに関係ないのだ、あなたではどうすることも出来ないのだ、むしろあなただけはどうしようもない、だから…。
「国木田が明後日主星に戻るそうだ」
「?」
「明日、最終報告をしろと言われた。…その、自分の事だけでなく、基地内のことも」
「…そういうことですか…」
 理解して、酷く脱力する。
 僕を心配していたのではない。上官に僕の状態を正しく報告する為に探っていたのだ。最初に言ったではないか、「聴取」だと。多分、最初の会談で危険を感 じた長官が彼に言い含めたのだろう。僕の様子を知らせろと。なるほど、僕は監視者だと思っていたが、逆だったらしい。
 コピーの存在を知る僕は、訓練無しに実践投入された彼をフォローするという意味では適任であり重要だろう。但し、あくまでコピーありきだ。コピーがオリ ジナルとして活動できる手助けをするのが目的で、コピーであることを知るが為に挙動が不審となり折角上手く機能しているコピーに綻びを付けるのなら居ない 方が良い。
 彼が僕以外とは上手くやっていけるというのなら、今のように僕が居なくてもボロが出ないというのなら、機密を知る僕はむしろ邪魔だ。プラスとならない存 在なら切られるのは僕の方だ。いくら涼宮さんに気に入られたとは言え、配属6ヶ月の僕と彼とでは比べるべくもない。
 乾いた笑いが漏れる。
「結構です、どうぞそのままご報告下さい!古泉一樹准尉は情緒が安定せず挙動不審、今にも精神に異常を来たし『彼は死んだ、此処にいるのは替え玉だ』と叫 びかねない状態。即座に身柄を更迭すべきである、とね!そうすればあなたも安心でしょう!僕さえ居なければ自分がイミテーションであることを知るものはい ない。疑うものすらいないのはこの数日で実感できたでしょう!さっさと厄介払いしたらどうです?!」
「古泉、俺はそんなことをしたいんじゃない!お前と打ち解けたいんだ。報告ではお前は俺たちと仲良くやっていたそうじゃないか。ハルヒにとっても、お前は 既に仲間だろう?何が不味い?教えてくれ。俺はもう誰も失いたくないんだ!」
「今さら!もうとうに亡くしてしまったじゃないですか!」
 彼を。
 誰よりも大事な人を。
 このテトラの、涼宮さんの、そして僕の、静かなるコアだったあの人はもう居ない。居るのは、同じ顔をしたまがいものだ。
 視界がぼやける。
 ああ、僕は今泣いているのだ。あれだけ泣いて、心を閉ざして、もう二度と涌くことがないと思っていた濁流が押し寄せる。
 彼の驚いた顔が近付いてくる。血の通ったほの赤い頬が。魂が留まった濃い色の目が。
 思うより先に手が伸び、彼の体を引き寄せ、口付けていた。
 その瞬間、忘れたつもりでいた熱が蘇る。凍らせた心が溶け想いが溢れ出る。
 久しぶりに味わう唇は、彼と全く同じ柔らかさ、甘さだった。
 舌を差し入れ絡め、唾液を混ぜ合わせる。吸い上げるとそれは、蜜のような甘みを醸した。
    っ、よせっ!」
 聞きなれない高い声がし背中に衝撃が走った時、何が起きたか瞬時には理解できなかった。
 彼が、半ば戸惑い半ば怯えた目で僕を見下ろしていた。
 突き飛ばされたのだと、気が付いた。
   これは、あの人ではない。良く似た別人だ。
 糾問するが如き目が、青ざめた顔が、僅かに引いた身が、それを教えた。
 唐突に、僕は悟った。
 これは、彼の身代わりだ。
 彼は死んだ。これは彼ではない。居なくなった彼の代わりとしてつかわされたのだ。これを僕は彼の代替として扱えば良いのだ。
 彼に出来なかったことをこれにすれば良いのだ。
 本能の告げるまま腕を引っ張り力任せにベッドの上に押し倒した。
「なにを…っ!?」
 両足で太ももを押さえつけ、逃げられないようにし服に手をかける。
「古泉…っ?」
 ジャケットを放り投げたあたりでようやく置かれてる状況に気付いた彼が身をよじる。
「古泉!よせっ!!」
 起き上がろうとする体を突き戻す。
 アンダーシャツをたくし上げようとしたら暴れたので2,3回頬を張った。一瞬意識が飛んで抵抗が止んだ隙に下着ごと剥ぎ取った。
 現れた裸体には、右肩に傷痍痕があった。こんなところまで同じだ。二年前、涼宮さんを庇って付いたという銃創で、風呂では何度か見たことがあるそれを、 僕はいつも触れたかった。もう痛みはないというかつての傷に、触れて彼を感じたかった。
 厳かに口付けると熱で引き連れた皮膚の襞が愛撫するように唇を擦った。僕はもうずっと、彼にこうしたかったのだ。
「古泉っ、止めろ!お前何を…………、…古泉?」
 また視界が盛大にぼやける。
 真下に見えるはずの彼の顔すら見えない。見えないから、今彼がどんな顔をしているのか  紅潮しているのか青ざめているのか  すら分からない。でもこ れはあの人ではないのだ。思いを遂げる前に彼は、逝ってしまったのだ…。
「…好きだったのに…」
 声が降った。
 僕の声だと気付くのに時間がかかり、気付いても僕が言っているのだとは思えないくらい遠くで聞こえた。
「あなたを、愛していたのに…、ずっとこうしたかったのに…、何で…、なん、で…っ」
 子供の駄々のような声が次々と降った。
 体も心から切り離されていた。手は勝手に動き、彼の足を割り、口はそこここに噛み跡を残した。いつの間にか立ち上がっていた男根が彼の奥を探り当て、力 任せに股を裂き、大きさの合わぬ穴に釘をねじ込むように、無理矢理その体を貫いた。
 不思議なことに、彼からの抵抗はなくなっていた。頬に触れたら手が濡れたので、彼も泣いていたのだろう。苦しげな喘ぎがひっきりなしに聞こえるが制止は 一度も混ざらない。両手は僕を突き放す代わり、背に回り、爪を立てた。
 涙で全く見えなかったので、肌で、舌で、息で、内で、彼を感じていた。


 狂気が去り、開放された体をよろよろと起こし、散らばった衣服を身に付ける彼を僕はベッドの上に足を投げ出し座し、ぼんやりと見つめていた。
 シーツも、彼の下半身も僕の性器も血と精液で汚れていた。酷い有様だ。
「何故抵抗しなかったのですか?」
 まるで他人事だ。
 責めているようにすら聞こえる声は、自分のものとは思えない。
 ぴくり、と彼の体が揺れた。
「抵抗も何も体を…」
「おさえつけられていたから出来なかった、なんて言わないで下さいよ。確かに無理矢理でしたが、あなたは非力ではない。両手もあいていました。もっと暴れ られたはずだし声も出せたはずだ。もっとも、もう少し抵抗されれば手を縛り上げ猿轡を噛ませていたでしょうけどね。
 男にされるのは平気ですか?それとも、狂人に逆らうより大人しくされるがままにした方が被害は少ないと見ましたか?」
 それなら分からないでもない。自分でもまともではなかったと思っている。いや、今だって正常だとは言い難い。あんなことをしておいて、今の彼の満員創痍 な状態を見て何の感慨も持てないのだから。
 彼は向き直ってベッド脇に歩み寄り僕を見下ろした。振り向きざまに吐いたため息は誰に向けたものか。
「分かったからだ」
「何を?僕の頭がおかしいということがですか?」
「…色々とだ。特に、あいつが…オリジナルがお前のことを好きだった、ってことがな」
 眩暈がした。
 世界が歪んだ。
 何だろう、この気持ちは。取り返しのつかない喪失感は。
「それを言うなら僕があの人を好きだったということが、でしよう。僕が一方的にあの人を想っていました。あの人にこうしたかった。でもあの人は…」
「好きだったよ、お前を。じゃなきゃお前にあんな顔をさせるまでにはならない」
「あの人とはそんな関係ではありませんでした。あの人に触れた事は…、あの人を汚したことは一度も…」
 許してはくれなかった。決して。
 口付けは、抱擁は許されたが繋がるどころか肩の聖痕に唇を寄せることすら、あの人は…。
「それでもお前を好きだった。分からないか?古泉、お前の目は鏡だ。あいつは、オリジナルは間違いなくお前のことを好きだった。触れさせなかったというな らまだ時期じゃなかったかタイミングが合わなかったというだけだろう」
 やがて許してもらえたというのだろうか。確かに僕もそう思っていた。でもそれは都合の良い妄想ではなかったか。今となっては確かめる術はない。このイミ テーションにどれだけ保証されても虚しいだけだ。
「それであなたは何故僕に大人しく抱かれたんです?彼ならそうしたはずだからと甘んじたというわけですか?」
 多分僕は違う答えを期待していた。別の理由が有ってだと、彼に酷似した人から言われたかったのだが。
「俺は俺だ。だから、俺ならばとった行動を選んだだけだ」
 あっさり肯定された。

「気をつけろ」
 身支度を整え、青ざめた顔のまま、帰り際、彼は僕に忠告した。
「お前、時々俺を…俺とオリジナルとを分けて接している。それをして良いのは俺の部屋でだけだ。
 今はまだ良いが、ハルヒに見られたら怪しまれる。あいつは勘が良いからな。」
 そっちこそさっきはコピーとして話していたくせに。
 思ったが言わない。元を正せば僕の所為なのだろう。代わりにちょっとした意匠返しを思いつく。
「あなたこそ気をつけて下さい」
「何をだ」
「僕があなたをどう思っているか、分かったでしょう。迂闊に近寄らない方が良いですよ。人前でどうこうしようというつもりはありませんし、コピーには用は ありませんが、彼と二人きりであれば話は別です。今度この部屋に入って来たらまた、あなたを抱きます。この部屋に入った時は必ず、抱きます。
 それが嫌なら近付かないことです。ああ、それとも、国木田長官に言いますか?『古泉に犯されました、だからあいつを更迭して下さい』ってね。構いません よ?僕は」
「………」
 狂的な笑い交じりの声に、彼は身を堅くし、何か言いたげだったが何も言わず、読めぬ目で僕を見下ろしていた。

 翌日、食堂で顔を合わせた彼は、少し寝不足気味の赤い目をしていたが普段とまるで変わりはなかった。時折歩きづらそうにしていたが、事情を知らない者が 見ても筋肉痛くらいにしか思えないだろう。
 目が合うと、欠伸をかみ殺した声で「よう」と言った。僕も負けじとにこやかに微笑み「おはようございます」と返す。
 何も変わらないいつも通りの一日。
 基地内の巡回をし、ドームの1つに視察に出かけた。途中、二人きりになることもあったが彼も僕も全く態度を変えなかった。
 長官の出立を僕は昼過ぎに知った。僕に伝言すらなかったから、彼は長官に何も言わなかったのだろう。愚かなことだ。

 一日の終わり、居住フロアに連れ立って戻る。
 エレベータを降り、廊下に踏み出した所で僕は彼の腕を手の甲でつついた。
「これから、僕の部屋に来ませんか?」
 息を吹きかけんばかりに耳元で囁くと彼の体が大きく跳ねた。
 化け物に遭ったかのような目で僕をまじと見つめると、ギロリとひと睨みして何も言わず歩き出した。強がる様が面白く、喉の奥でくっくと笑う。
 彼はずんずんと足を進め、自室…ではなく僕の部屋の前で立ち止まった。
「早く開けろ。気が変わっちまうだろ!」
「…それは、困りますね」
 キーを解除すると、彼は自分から進んで、僕の部屋に入った。




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