九月のうつつ・前編




 その瞳はえらく優しい。
 時には捕食動物を目の前にした禽獣なみに獰猛になったりもするが、基本的に慈愛に満ちている。
 その唇はとても熱い。
 手入れしているわけでもないだろうに、滑らかで弾力がある。下唇を甘噛みすると、そんなわけがないのに蜜が溢れてくるようだ。
 その言葉はとても甘い。
 『好きです』
 何かヤバい成分でも入っているんじゃなかろうかと疑うくらい耳に入ると脳みそから骨から、あらゆる場所がぐすぐすに溶けてしまう気がする。
 出会ったばかりの頃は耳元で囁かれると  もちろんそれは愛の言葉じゃなかったが  体中に悪寒が走った。気持ち悪いと思ったが、それは今まで口にしたことがなかった異国の上質の菓子のようなもんで、初めはその独特さに驚いただけで、慣れるとやみつきになっていた。もっと食いたい、と。
 その点この男は実に気前が良い。ねだらなくともいくらでも言葉をくれる。今時、某デパートの優勝セールでもここまで大盤振る舞いはすまい。普段は余計なことを喋りすぎるこいつだが、ここでは睦言以外は殆ど口にしない。何も考えず俺は、ただこいつの心地よい声に耳を傾けていれば良い。
 こいつの声が好きだ。声だけじゃない、キザったらしい仕草も、嫌味な優等生的態度も、俺だけに向けられる深い眼差しも。

 こいつは俺の恋人だった。ただし、夢の中限定の。



 夢とは睡眠中、現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像…体感現象の一種である。脳波が関係するらしいが詳しいメカニズムは解明されていない。白昼夢や妄想と違うところは自分の意思で見るものを選ぶことは出来ないとこだ。
 人は一度の眠りで何度も夢を見るらしい。だがその殆どを憶えてはいない。また、憶えているとしても輪郭のみだったり虫食い状態だったりで、全てを明晰に憶えていることはまれだそうだ。
 今日の俺の夢もその類だ。夢を見たことと、心地よかったことは憶えているが、内容は一片たりとも憶えていない。
 だが、嫌な粘液でベタつく下半身がその内容を教えていた。
 …またかよ…。
 半ば諦めにも似た気持ちで天井を仰ぐ。
 またあいつとの夢を見ちまったらしい。
 普通の夢じゃない。ジャンルで言うなら学園ものでもSFでもファンタジーでもない。恋愛…いや、ポルノだ。それもただのポルノじゃない。朝比奈さんばりのボンバーな美女が出てくる夢なら、俺も若いね溜まっているのかねで済ませることが出来るが、相手が良く知っている男で、俺が女役で、洩らしたかとぎょっとするくらい夢精しちまうってのは喜劇的ですらある。

 俺はこの二ヶ月ほど、繰り返し同じ設定の夢を見続けている。
 夢の中で俺は、あの、SOS団の副団長にして爽やかハンサム青年の古泉と恋人同士で何ぞやを憶えた猿のように、隙あらば乳繰り合っていた。
 初めてその夢を見たのは七月の初旬だ。あまりのありえなさに飛び起き奇声を上げ、その日から始まった期末テストの為に仕込んだ一夜漬けの内容が全て頭から抜け落ち、テスト結果に支障をきたしたので良く憶えている。
 俺たちは何故かホテルにいた。いかがわしいホテルじゃないぞ。旅行会社のパンフレットに写真が載っていそうな洒落たリゾートホテルだった。
 何で俺たちが二人きりでホテルの一室にいたのかは知らん。雰囲気的に夏休みを利用したバカンスといったところだ。
 何とおぞましい、と、夢の中の俺は思わない。俺たちは恋人同士なんだから、そういうこともありえるだろう。つまり、夢を夢と自覚する明晰夢でなく俺はそれが夢だとは思わず、古泉の恋人だという無茶な設定も難なく受け入れてしまっていたのだ。
 部屋に入るなりヤツは俺を抱きしめてきた。俺は何でこんなところで、と拒絶したが形だけだ。アツアツの恋人同士がホテルの一室で二人きりでいて、それ以上相応しいシチュエーションはあるまい?
 あいつの、爽やかな外見に似合わぬねちっこい性格は知っているし(実際がそうだというわけでない、夢の中ではそうだったということだ)、そんなところも含めて俺はヤツにまいっていた(夢の中では)。少々強引な所作も俺に惚れているからこそだと思えば胸が高鳴ったし「ヤらせろ」と訴えるギラついた目とは裏腹に甘い言葉を紡ぎ続けるギャップに笑えたし愛しかった。
 あくまで強引な古泉の求めに応じてという見せかけのスタンスを崩さず実のところ舌なめずりをしてヤツを受け入れたのだ。
 10代の健康男子高生の体力に相応しい激しさで古泉は俺を抱き、怖いもの知らずの青春児ならではの貪欲さで俺も古泉を求めた。
 好き合っている恋人同士だ、どこに遠慮が要る?
 そう、俺たちは紛うかたなき恋人同士だった。
 …あの夢の中では。
 古泉は俺に呪文のように好きですと唱え続け、俺の方も口に出しはしなかったが、心の中では同じ言葉を返し続けていた。俺は古泉のことが本当に好きだった。
 …あの夢の中では。
 誓って言う。俺は古泉に対しては恋愛感情はない。いや、少なくともあの時はなかった。
 だから目が覚めて、その突拍子もなさに大いに驚いた。体中汗だくで、下着の中は汗と違う粘った湿りがあり、そのことに酷くショックを受けた。
 男に抱かれた夢で夢精するなんざ、5月の閉鎖空間脱出時のアレをぶっちぎって思い出したくない過去No.1にのし上がる悪夢だ。
 何だってこんな夢を…と思ったが、夢の不条理,不可解は今更だ。前日の放課後、古泉からウインクをくらい、女になら利くだろうが俺はキモいだけだと思ったこと、谷口が持ってきたアダルトな週刊誌の“夏のセックス特集”の記事なんかがデタラメに絡み合ってろくでもない結実をしちまったんだろう。
 飛び起きたなりの頃は結構生々しく感じた古泉の腕や息遣いも、着替えて体をさっぱりさせ、顔を洗って齒を磨いているうちに薄らいでいった。夢ってのはドラキュラと同じで、白日の下では長生きしないもんだ。
 放課後には大分冷静さを取り戻した俺は、実際古泉を目の当たりにしても、ヤツが夢の中でのように甘ったるい顔をしてこなかったことも幸いして、普段と変わらず接することが出来た。いや、顔を近づけられた時いつもよりちょっと盛大に顔を顰めしまったかな。まあ許容範囲内だろう。
 封印したいと思ったこともあるだろうが、夢のことは数日で殆ど消えてしまっていた。奇天烈すぎて定着しなかったのだろう。
 だというのに4日後、俺はまた古泉に抱かれる夢を見た。…見たのだと思う。細部は憶えていない。ただ古泉の粘っこい視線と「好きです」という言葉が風に乗って聞こえる隣町の時報チャイムのように遠くで涼やかに耳に残っていた。極めつけがあれだ。またしても俺は親に隠れてコソコソと下着を手洗いするハメになっていた。状況的に考えて、そういう夢を見ていたと判断せざるを得ない。
 更にその後、二ヶ月に渡り何度も古泉に抱かれる夢を見て、ある一つの結論に達しないわけにはいかなかった。
 どうやら俺は古泉を好きらしい。
 もっと言うなら古泉に抱かれたいと思っている。
 この結論を案外俺は冷静に受け止めた。夢の出す信号の意味をギリギリまで気付かないふりをし、目を逸らし続けていたからだろう。頭が答えを出した時には心は既に分かっていたのだ。

 さて、自分で言うのも何だが、俺は存外心が広い。柔軟性があると言い換えても良い。
 目の前に突きつけられたものであればいかに常識外のものであってもそうかと受け入れられる寛容性がある。でなければハルヒはじめ未来人や宇宙人や超能力者がいきなり目の前に現れ事件を起こしまくっている脇で普通の高校生活なぞやってられるものか。
 男に惚れて、ショックと言えばショックで、しかも抱かれたいだなど正気の沙汰ではないと思うのだがそうなっちまったもんは仕方がねーだろと開き直る気持ちの方が強い。
 これが谷口ならともかく、古泉自体、男に惚れられてもおかしくない男前だしな。顔や頭が良いからってんじゃないぞ。それもないとは言わんがあくまでオプションだ。一見なよやかに見えて芯の通った意思の強さ、環境や状況の変化に即座に対応できる臨機応変さなんかが凄いと思うわけだ。とても真似できん。それがどうして抱かれたいに繋がるかは返答に窮するところだが、恋に溺れた愚か者の色眼鏡だと思って流してくれ。
 とにかく、俺は古泉に惚れている。
 そこは認めるが、じゃあ何かしたいかと言えばそうではない。
 同性であることもだが古泉ほどの男が俺とどうにかなるはずがない。告ったところで気味悪がれ拒絶され遠ざけられるだけだ。成就するどころか、それまで築き上げてきたわずかな関係まで粉砕されるだろう。砕けるのが分かっていてぶち当たるチャレンジ精神は俺にはない。
 恋心を抱きつつ告白すら出来ずに終わる甘酸っぱい青春の一コマってヤツだ。ムリ目の美女と妄想でイイコトは出来ても実際には声をかけることも叶わない、あれと同じだ。
 顔が近付いたり手が触れたりするとドキマキするが、朝比奈さんに対するものとさしたる違いはない。つまり、学校生活や団活を楽しむ要素が増えたってだけだ。
 古泉への恋心に気付いた影響は、俺の夜のおかずが一品追加されたくらいだろう。
 全く平気かと言えば嘘になる。夢の中では始終絡み合っている俺たちが、現実では友人、下手をするとそれ以下だってんだからな。
 それでも、今ある関係を壊してまで手に入れたいものではなかった…いや、手に入るなら壊しても良いとちょっとは思わんでもないが、万に一つも手に入る可能性はない。動けるわけがないだろうが。
 ま、現実で男に抱かれることの不自然さ、辛さは想像できるから気持ち良いばかりの夢の中でだけの関係で良かったのかもな。負け惜しみじゃないぞ。
 日々現実の古泉の顔や仕草を何気ないふりを装い眺めるのは、喜びと、僅かばかりの痛みも伴う。それでも俺は止められない。告白するつもりもなければ両想いになる望みも持ってもいなくてもだ。
 一度、夢で別れを切り出されたことがある。
 どういうシチュエーションだったかは確かではないが、古泉が俺に愛想をつかしたとか嫌になったとかでなく、何かやもえない事情で好きだけど別れようというものだった。俺は全力で却下して拒否した。必死の思いで好きだから別れるなんて言うなと言い、古泉に圧し掛かった。今思えば、どうせ夢なんだから、マルチエンディングゲームのバッドエンドを見るように、一回くらい別れを経験しておいてもよかったんだがその時は本気で血の気が引いた。夢の中の俺はけなげというか色ボケしているよな、まったく。
 それほどまでに俺は古泉が好きだ。
 現実と夢との差に泣きたくなることはあるが、始終一緒にいる仲間だ、嫌うより好いている方がよっぽど良いさと割り切っていた。

 ところが、此処に来て最近、古泉の様子がおかしい。九月に入ってからどうも挙動が不審だ。
 何か考え込むように押し黙ったかと思えば、いきなりスイッチが入ったように多言になる。
 もの言いたげにこちらを見つめているのに目が合うとさっと顔を逸らす。
 一体何だ、言いたいことがあるなら言いやがれ、とは思っても言えない。
 この古泉の振る舞いには後ろめたい心当たりがあるからだ。つまりあれだ、邪まな恋心が気づかれたんじゃないかってことだ。
 この思慕については俺はかなり上手く隠している自信がある。元々俺は少々天邪鬼なところがあり、喜怒哀楽のうち、喜と楽を素直に表せない傾向にある。いや、表さないというのなら怒も哀もそうそう出さないのだが、負の感情を表に出さないのは我慢という美徳だか正の感情を押し隠すのは、最近ではツンデレなどという悪徳を正当化する便利な言葉もあるが、ただのつむじ曲りだ。
 朝比奈さんのように、他人に見返りを求めない、返礼を強いない軟らかな優しさや好意は素直に受けることが出来るのだが、楽しいだろう、嬉しいだろうと押し売りされるやり方には反発してしまう。「勝ち負けで言うところの負け」を感じると言えば西の人間なら分かってくれると思う。
 随分ずれたが、そんなわけで、本心と違う態度を取るのはかなり得意だと自負している俺は、古泉が顔を近付けたり息を吹きかけてきたりするたび心臓が跳ね上がるのだが「ウザい」「キモい」と顔を顰め、お前のことなぞ好きでもなんでもないという素振りを取れていたと思う。
 思うのだがどこかで失敗してやいないか?
 忍ぶれど色にでりけりじゃないが隠しているつもりでダダ漏れになっていたんじゃないか?もしくは古泉の力の限定が解除されて、俺の心が読めるようになったとか?そんでもって「相変わらず腹が立つくらい良い男だな」とか、「あの唇に吸い付きたい」なんていう心の声が筒抜けになっていたとか?それで気味悪がって俺を避けているんじゃないだろうな。かなりゾッとする可能性だ。両想いになりたいとは思っていないが、嫌われるのは嫌だった。

 どこかぎくしゃくしたものを抱えたまま、二学期最初の団活。午前も午後も古泉と同じ班になるのは免れてほっとする。一緒にいたいという気持ちもあるが、それより二人きりというのは現時点ではちょっと気詰まりだった。
 だというのに古泉は午後の活動に分かれる前ハルヒたちの目を盗んで口を寄せてきた。
「お話があります。散策活動の後、例のベンチでお待ちしております。他言無用で」
 口早に言い、何事もなかったかのように離れて行った。
 話?一体何だ?僕で妄想するのは止めて下さいとでも言うのか?
 最悪の想像を真っ先にするが、一方で、古泉の態度が緊張はあっても嫌悪は読み取れなかったので少々安堵する。
 多分ハルヒ絡みの何かについてだろう。俺たちの間で他言無用の話と言えばそれくらいだからな。しかし二人きりでということは、機関寄りの話なんだろうな。長門や朝比奈さんと敵対するような面倒なことじゃないと良いが。
 古泉が今まで持ってきた話にろくなものはなかったが、憤死ものの胸のうちが晒されるより酷いものはあるまい。
 古泉の挙動不審の原因がハルヒ絡みとアタリをつけた俺はなんとなくほっとし、午後を穏やかに過ごすことが出来た。
 いつものごとくハルヒが望むような不思議はみつからず、それでも道すがらみつけた屋台のアイスキャンディーが美味かったという単純な理由で上機嫌のハルヒによる散会の号令の後、家に帰るふりをして辺りを一周し、指定された場所に向かった。





−続く−