八月の夢・前編




 僕は彼の手を引いて人波に逆行して薄暗い路地へと入り込んだ。
「おい、古泉」
 声は咎めているが、彼は逆らわない。僕の意図を分かってそわそわしていても背徳感の混ざった期待も含んでいる。
「不味いって。あんまり離れるとハルヒが…」
「屋台が混んでいたと言えば良いでしょう。それに、そろそろ始まります。暫くはそちらに目を奪われてこちらを気にしていられませんよ」
 僕の言葉が合図だったかのように、背後でドーンという音がする。やや遅れて、眩い光と歓声が届く。花火大会が始まったのだ。

 例によってここは涼宮さんの夢の中だ。
 SOS団全員で花火大会を見に来ているというシチュエーション。
 はいはいお姫様、分かりました、花火ですね。
 8月に入ってから既に三度、涼宮さんは花火大会の夢を見ている。余程行きたいのだろう。夏休み後半のスケジュールに組み込まれるに違いない。
 夏休み開始早々の孤島での“現実の”合宿を終えた後、SOS団はそれぞれの都合で暫くは集まっていない。
 それぞれのと言っても僕と長門さんと朝比奈さんは涼宮さんの意向を最優先するので実際は涼宮さんと彼の都合ということになる。
 二人とも家族旅行で、涼宮さんは三日前に帰って来ていて彼は昨日  もしかしたら「今日」。眠っている今の日付がどちらにあるのか確信は持てないので  帰って来た。
 涼宮さんは彼のスケジュールを把握しているから早々にお呼びがかかるに違いない。僕は久々に現実の彼に会えるというわけだ。
 夢の中ではしょっちゅう会っているし  最近では週に2,3度という頻度だ  夢の方が好き勝手出来るが、いくら意識がクリアでも夢は夢だ。
「おま…、こんなところで…」
「しっ、黙って」
 僕が歩みを進めるに従って都合よく現れる道を通り、やはり僕の陳腐な想像力によって生まれた神社の境内の裏に周り、月明かりしか届かない茂みの中で浴衣の襟から手を突っ込んで彼の体をまさぐる。音を発てて鎖骨に吸い付くと、彼の喉が仰け反った。
「人が来たら…」
「来ませんよ」
 ついでに蚊に刺される心配も、服が汚れる気遣いも無用。此処は夢という無菌室の中なのだから。
 わざと帯を外さず浴衣の前をくつろげる。半ばに脱げたしどけない姿の何とそそられることか。
 草の上に押し倒し、唇にむしゃぶりつく。深く口付けすぎて、鼻も塞いでしまったらしく、長いキスの後口を離すと彼はプールで潜水から水上に顔を出した直後のようにぷはっと息継ぎをした。…息をしなくても苦しいはずはないのに。
「お前、がっつきすぎ!」
 下着に潜り込ませた手を押し返される。
「ダメですか?」
「あとにしろよ!こんな屋外じゃなくてさ!花火が終わったら、その…、お前ン家行って、き、今日はと…泊まるから…」
 一晩中好きにして良いということか。ああそれも魅力的な提案だ。けれどもそれまで夢が持つとは思えない。前二回も花火が終わると同時に夢は消滅してしまい、人目を盗んでキスをかすめ取るのが精一杯だったのだ。
 それに。
「ここでしたいんです」
「…ここで…って…」
「一度外で、ってしてみたかったんですよ。しかも夏祭りの最中って、少女漫画のようなシチュエーションじゃありませんか?」
「…むしろエロビデオだろうよ…」
 呆れてぼやいたけれど、彼は抵抗を止めてくれた。
 代替の利かない要求であれば彼は全て飲んでくれた。…夢の中では。
 苦笑し、あらためて僕は彼に覆い被さる。
 浴衣を敷物にし、下着を剥ぎ落とし脇腹を舐め上げた。
 夏で、夜だったのに、彼の体からは味らしい味はしない。背で潰した草の青々しい匂いもない。舌で汗を掬っても微かに塩味がするだけだ。それだって僕がそうあるべきだと思っているから感じているだけで、本当に味がしているのかも怪しい。触れる感覚と切れ切れに聞こえだした喘ぎ声は多分現実とは大差がない。彼が現実で喘ぐとするならばだ。でも味は違う。熱と汗とで本来なら彼の体からは香ばしく強い臭いが立ちこめ、舌を刺す濃い味がするはずだ。
 下腹部の茂みに顔を寄せ、勃起しかけた性器を口に含む。
 ここもだ。
 ここはこんな、風呂に入った後アルコール消毒をしたような味も臭いもない場所ではないはずだ。
 初めて抱いた時はこの無味乾燥さに助けられた。男の体臭を振りまかれてはいかな好奇心旺盛な僕といえ、途中で萎えていただろう。
 けれども、彼を好きだと自覚し、夢で何度も体を重ね、余すところなく欲しいと思うようになってから、この薄さでは物足りなくなっていた。
 勃起した茎を舐めても清潔に洗われた海綿スポンジを含むようで面白みがない。後ろの穴を解していた指を抜いても何の粘液もまとわりついて来ない。まるでラブドールのようだ。それでも僕は欲情する。だってそうだろう?夢とは言え好きな人を抱いていて興奮しないのなら世に夢精なるものは存在しない。
 彼の欲望を育てるのは手にまかせ、体を伸ばしてキスをする。確かな息遣いと舌の感触が、ひと時でもまやかしを忘れさせてくれる。
「…も、こいずみ…、い…イく…っ」
 紛れない彼の声が耳に心地良い。
 絶頂を迎えた体が小刻みに震える振動、それは直に僕の肌に伝わる。それでも  
 手に吐き出された精液、汗にまみれた腹部、僕の欲望を受け止めた内股の味の薄さが、そのまま彼の本当の想いの薄さ、この空間での僕への気持ちの偽り深さを表しているようで、寂しくなった。



 予想通り、いや、予想より少し遅く午後になって、涼宮さんから集合の連絡が入った。てっきり朝一で召集がかかると思っていたのにアテが外れた。旅疲れで羽根を伸ばしている彼に半日とは言え気を使ったのかもしない。
 現実の彼と会うのは二週間ぶりでもその間夢で何度も会いセックスしていたのだから、どういう顔をすれば良いか、夢と現実をごっちゃにしてろくでもないことを口走らないかと心配したが、とんだ杞憂だった。
 久々に会った彼は夏の太陽の下こんがりと日焼けしており、二週間前とは全くの別人に見えた。焼けた肌のお陰で精悍さが増していて、今朝方までの夢に出てきたなまっちょろい肌の彼は一瞬にして色あせた。俗な言い方をするなら、すっかり惚れ直してしまっていた。
 焼けたわねキョン、将来皮膚癌になるわよ!と涼宮さんが楽しそうに彼の姿を確かめるように体をばしばし叩いているので、今日からは涼宮さんの夢の中でも日に焼けた彼の姿を拝めるだろう。
 近付くと、隣に立っただけで汗と日の匂いが混ざったねっとりとした体臭が鼻孔を擽り思わず喉が鳴る。どれだけ意識がクリアでも夢は夢でしかない。臭覚からの刺激は現実でなければ味わえなかった。
 僕を見た彼はいつもより盛大に眉を顰めた。大した歓迎ぶりだ。夢を現に刷り込ませるほど憶えていないまでも、半端に、無意識にトラウマ化するくらいはぼんやりと記憶しているのかもしれない。つまり、恋心は忘れ、同性に抱かる嫌悪だけは憶えているという。
 寂寥を感じる一方、この状況を楽しんでもいる。貞淑な仮面の下に淫らな本性を隠している。そんな悪女と対している気分になる。
 どうせ現実では彼は僕になびいてはくれないのだ。せめて夢の中だけでも楽しもう。
 目の前の善良な同級生を夜な夜な犯し  涼宮さんの夢に呼ばれない時は妄想で間に合わせ  昼間は爽やかに笑いかける。その二面性を楽しみ全く罪悪感を憶えていなかった。
 そんな中で、僕はこの夏のループを知った。

 確かに僕は既視感を憶えていた。プールで、夏祭りで、セミ取りで、そこかしこで。
 ただそれを時間のループと結びつけて考えることは全く出来ていなかった。
 既視感を憶える別世界として僕には、涼宮さんの夢の中という、一際現実に酷似した舞台が有ったからだ。
 その舞台効果は彼にも、但し僕とは真逆に作用したようで、夢世界での経験の所為で感じた既視感も全て、ループの所為だとすり替えて納得してしまったようだったけれど。
 時間のループを知ったからと言って僕は大した感慨は抱かなかった。泣きじゃくる未来人、呆然とする彼を視界にとらえても気持ちは落ち着いていた。
 未来がない、それが?
 いくら既視感があるとは言え僕が体感している高一の夏は一回きりで、六百年近くも同じ場所を彷徨い続けているという感覚はない。
 明確な意識を持って同じ二週間を延々繰り返させられ憔悴しているのならともかく、前回までの記憶がリセットされている上では危機感も薄かった。どころか、延々続くなら世界はなくならない。死ぬこともない。なら別にそれでも良いではないかとすら  流石に積極的に推奨したくはなかったけれど  思った。
 四人の中で僕が一番、そう、観察者としてこの馬鹿げた繰り返しを一つ残らず憶えていた長門さんより、ループを断ち切ることに消極的だったと思う。
 楽しい夏休みがずっと続けば良いのに。そんな誰しもが一度は望む理想の世界がここにあるのだ、何を憂う?
 実は僕は、涼宮さんがこの夏を終わらせない理由に一つ思い当たるフシがあった。けれども、言わなかった。その心当たりこそ僕がループを推奨している理由の最たるものでもあったからだ。
「お前、何か心当たりないか?」
 だから、苛立ちと焦燥が浮かんだ眼差しで、すがるように彼が聞いてきても「一向に」と白をきった。
 白をきり通せる自信はあった。あの夢を見るまでは。



 8月も残すところ後五日という日の夜、僕はいつものように涼宮さんの夢の中に呼ばれた。けれども、その夢はいつもと様相が違っていた。
 そこには、僕以外誰も居なかった。
 涼宮さんも、彼も、誰も。それどころか何もない。上下も左右もない、闇の中だった。呼んでも応えるものはない。自分の声すら闇に飲み込まれて聞こえない。何かを探ろうにも無重力空間に居るように、手足は空を切る。動いているという感覚がない。自分の顔すらちゃんと触れない…在る気がしない。
 全くの無の世界だった。
 もう涼宮さんには夢に見るほど叶えたい望みがないということか。
 そう思おうとしたけれども、僕にはその虚無は警告に思えた。
 もう良いでしょう、もうそろそろ終わりにしましょう、でないと  

 世界を崩壊させるタイムリミットを告げられ、跳ね起きた僕は全身が汗でぐっしょり濡れていた。


−続く−



後半は10月末かなぁ。