未だ冬




 目覚まし代わりに点けたテレビでは、関東の大雪をトップニュースとして報じていた。何でも、平野部でも10cm近い積雪があり、交通網が麻痺状態であるとのこと。
 画面には、スーパーで1個100円で売られているショートケーキを飾る生クリーム程度に街を覆った雪と、右往左往する人と車が映し出されていた。
 やれ、たかが10cm程度の雪でパニックとは軟弱なことだ。
 反射的に嘲笑が浮かび、あわてて自戒する。社会に与える影響の大きさにより話題になっているのだ、降雪の絶対量は問題ではない。例年1mを超える積雪のあるこの地ならば一夜で5,60cm積もったところで回転は鈍化しはしても日常は回る。だが冬の常態は冷たく乾燥した晴天というかの地では10cmの雪でも致死の毒となる。
 難儀なことだなと同情はする。だが、ということはだ。
 思い至り、立ち上がって勢いよくカーテンを開ける。
「おー!」
 雲は所々に散っているが、空は青。日差しが白く全体を煌めかせている。予想以上の好天に、思わず声が上がった。


 一口に“雪国”と特徴づけられるこの土地に、大学進学を期に越してきて三年近くが経とうとしている。
 自他ともに認める極度の寒がりの俺が、厳冬を抱く北国に進学を決めたのは学力と経済事情が許す最も適当な進路であったからに他ならないが、雪国の冬を舐めていたということもある。
 俺の地元は決して寒地ではないが、シーズンに数回は雪が降り、少なからぬ積雪もある。気流の関係で大雪には縁がないというだけで、放射冷却による朝の冷え込みと、おろしがもたらす寒風の所為で、曇天に守られた下手な北国よりは寒いくらいだ。…と、したり顔で嘯いた父親に騙されていた。そして舐めてかかっていた。
 雲のカーテンが溜め込んだわずかな温もりと太陽がもたらす熱とでは比べようがない。雪国の冬というのは昼間の日照の恩赦のない、逃げ場のない牢獄だった。
 一日中天を覆う厚い雲は地熱を逃がさないかもしれないが、そもそもその熱自体があまりない。その上冷気もまたその場に閉じ込めておく。
 終日灰色に閉ざされた世界は、かつて何度か迷い込んだことのある異常空間を思い出させもした。
 つまり、だ。とにかく寒い。そして寒い。とことん、寒い!のだ、ここは。
 建物の中に入れば暖房は効いているが圧倒的な力を持つ冷気の侵食を防ぎきれず、そこここで冷たい鼻面を押し当てられる。
 何でもここいらは、夜、水抜きが要らない北限なのだそうだ。“水抜き”とは、聞きなれない言葉だが、夜、水道の元栓を閉めるなどして水道管の中から水を空にする作業のことで、水が凍って水道管が破裂するのを防ぐのだそうだ。大体、気温が-10度を下回る日が真冬において珍しくない土地の習慣だそうな。ここは、最低気温がマイナスになるのは常態でも、真冬日はほとんどない。ぎりぎりではあるが水抜きの必要はない土地なのだということ。
 つまりそこまで寒くないということではないか、結構なことだ、と思うのは甘い。
 水抜きが必要なほど寒い地域では建物の防寒はしっかりしており、暖房も完備され室内で過ごす分にはジャケットすら要らないらしい。
「ここはそこまで寒くならないからさ、建物の構造はいい加減だし空調効いてんの、部屋ン中だけだろ?家でも大学でも廊下は外じゃん。ちょっと移動するにも寒い場所通らないといけないし、戸を開けるたびに冷気入ってくるもん。東北や北海道より寒いぜ!」
 やや北地から進学してきた同級生の言葉には説得力があるように思えた。
 最低気温だけなら地元とは大差はない。だがそこに、白い魔物が居座り日長一日重い雲が空を埋めるというのは心が暗くなる。土地柄、冬期は殆ど晴天が望めないのには地味にダメージがクる。どれだけ寒かろうが空が青いだけで気持ちが晴れる、かけがえのない恩寵だったのだと今更気付いた。
 そんな雪国でも天の気まぐれでシーズンに何度かは青天が拝める。冬の太陽は貴重だ。人は、全身がソーラパネルになったかのように四肢を伸ばし充電をする。
 気圧の関係で、関東に雪が降る時はこちらでは晴れる可能性が高い。そんなわけで俺は、首都圏大雪のニュースを聞いて慌ててカーテンを開けたというわけだ。
 寒いことには変わりはないのに浮き足立ち、いそいそと着替えを済ませ、今日の朝飯は学食のモーニングと洒落込むか、と普段より早く家を出た。


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 雪国人を喜ばせた晴天は日没まで持たず、太陽は地平に沈むより先に雪雲によって隠された。天気予報を見るまでもなく、夜半から再び冬の使者の襲来を受けることだろう。うんざりだ。
「溜息を吐くくらいならとっとと帰ったらどうです?」
 部屋の主が机の上のノートパソコンに視線を固定したまま言い放つ。キーボードを叩きながら人の控えめな溜息を聞きとめるとは相変わらず小器用なヤツだ。
 まあ俺に嫌味を言う為にアラを探すのは古泉の趣味みたいなものだから、致し方あるまい。最初のうちこそ事ある毎に突っかかって来られて閉口したが、最近では何かヘマをして古泉の突込みがないと体調でも悪いのかと心配になるありさまだ。
 高校卒業と共に俺たちの前から消えた古泉と、一年遅れで入った大学で再会してから三年近くが経つが、俺に対する古泉の態度に劇的な変化はない。ああ、高校時代から比べると林檎畑が製紙工場になるくらいの変化はあったがな。再会後暫くのゴタゴタがあり、決して健全ではないが一定のバランスで関係が落ち着いた、時期にして一年の夏休み前くらいだろうか、それ以降はあまり変わっていない。
 高3の夏、ハルヒから受けた仕打ちによりあの時代に繋がる全てを忌み嫌うようになった古泉は、一時は自分の気持ちに折り合いをつけたかよのうに見えたが、憎悪こそある程度昇華させたもののまだ心は硬く閉ざしたままだった。交通事故なみの“不運”で俺とは交友を復活させるに至ったが、あの頃の友であるハルヒや機関の連中とは頑なに連絡を取ろうとはしない。話題に上らせることすら拒否していた。根が深い問題だ、暫くそっとしておこう、そのうち古泉の心もほぐれるだろうと思って早3年だ。ここまでマイペースなヤツだとは思っていなかった。
 マイペースと言えば。
「さっきから何やってんだ?見たところ卒論の直しのようたが…」
「見て分かるなら聞かないでもらえます?」
 いやだって、卒論の提出は1ヶ月も前に終わっているだろうに。今更修正したところで何の加点にもならんだろう。
「教授から3か所ほど手を入れて紀要に載せないかと言われたんで」
「…なるほど」
 てっきり提出した後、気に入らないところを見つけて自己満足で修正しているのだと思っていた。
 一浪して大学に入った俺と違い、順当に進学,進級した古泉は今年学部の最終学年を迎えた。もっと学びたいからと、早いうちから進路を大学院に定め、何の問題なく修士課程への進学を決めていた。本来ならこの時期、4年生は学生らしい拘束から解き放たれ、社会という新たな鳥籠に収容される前のつかの間の自由を謳歌し、旅行に出かけたり趣味事に没頭したりするものだが、同じ学舎で専門そのまま進学するのであればインターバルはないのかもしれない。
 とすると俺は勉強の邪魔をしにきたようなものか。古泉の部屋の方が暖房の効きが良いし、今日は鍋の気分で一人で食べるのも何だからと週半ばにも関わらず押し掛けた。俺が居る居ないで自分のペースを乱す男ではないが、これまでも試験前など忙しそうな時は遠慮していた。なし崩し的に関係は続いてはいるし古泉にとって俺はそれなりに存在意義があるとは思っているが、今のところは必要悪だ。すっかり荒んでしまった古泉のサンドバッグにすぎない。
「これ以上遅くなるとますます寒くなって外に出るのが嫌になるからな。そろそろ帰るわ」
 メシは食った。洗い物も済ませた。頃合いだろうと散らかした手荷物をかき集めていると古泉がノートパソコンをパタン、と閉じた。
「泊まって行けば良いじゃないですか」
「………」
 驚いて見ると古泉は一区切りついたとばかりに吐息を開放し、目にかかる前髪をざっくりと掻き上げていた。
 俺と目を合わすと尊大に顎をしゃくる。
「…すんの?」
「ひと段落つきましたので、息抜きに」
 そんな失礼な言い方があるか、相手が恋人なら平手を喰らうところだぞ、と呆れたが生憎俺は古泉の恋人ではない。一昨日まで苦しめられていた後期試験の疲れと解放、そして今日の晴天からチャージされたパワーもあった。
 さもつまらなさそうに口を曲げ、手にしていた本とペンケースを放り捨て、代わりに古泉の手を取った。


■■■


 変わらないと言えばこれも変わらない。
 事後の倦怠感を抱えつつ、後始末をする古泉の丸まった背中を眺める。雪国育ちと言っても通じるきめの細かい肌がうっすら色付きしっとりと水を含んでいた。
 古泉との体の関係は今も続いている。頻度は月に2回といったところか。俺が古泉の部屋に上がり込むのは週に1度か2度だから、会うと2,3回に1回の割合で抱かれていることになる。3年近くもの間、だ。
 その間、何等かの情が芽生えたとか互いの意識が変化したりということはない。多少バリエーションは増えたが行為の手順も大して変わらない。よく飽きないものだと感心しはするが、冬を3回迎えるに至り、さしもの温厚な俺でも少々いらつきを憶えないでもない。それは、日中、タイミング良く届いた一通のメールにも一因があった。
「古泉、ハルヒが来月、一週間ほど一時帰国するってさ」
「…へえ」
 一瞬でも動作を止めることなく、興味なさそうな返事が返ってくる。一言返すようになっただけでもマシになったかと思っていたが、それも2年前のことになる。
「一度集まろうということになったんだけど、お前も」
「僕は行きません。お一人でどうぞ」
 案の定最後まで言わせず拒否された。
 口調はきっぱりとしていたが淡々とした静かなもので、感情がこもって見えない分、気持ちが遠くにあるとを伺わせた。まだ古泉の時は止まったままなのだ。
「お前なぁ、ちょっと長いぞ?」
「………」
「いつまで引きずっているつもりだ?お前だって不毛だって分かっているだろう?ハルヒの事、捨ておけるなら良いが見ないふりをしているだけで拘り続けているだろう。そろそろ向き合ってみたらどうだ?もう3年だ、十分時間が経っただろうに。冬だっていつまでも続くわけじゃない。雪もやがて溶ける。俺にはお前が、春の訪れに気付かないフリをして冬眠し続ける熊のように見えるぞ。ちゃんと目を開けて辺りを見回してみろよ。そこここに日差しが当たっているからさ」
 ハルヒや、あの時代をなかったことにして生きていけるならそれで良い。だが古泉、お前はそうじゃないはずだ。ハルヒという過去と向き合い、折り合いをつけた後でないと先に進めない男だ。過去にするならすれば良い。だが人生は長いようでいて短い。一度決着をつけなきゃならないのなら早い方が良い。
 ダメ元の忠告で、どうせ怒るか無視するかだろうと思っていたが、予想が外れた。
 パジャマ代わりのスウェットシャツを着込むと古泉は面倒臭そうに俺を一瞥して布団に足を突っ込んでくる。
「あなたにとって冬は何月から何月までですか?」
「は?なにをやぶからぼうに…」
「晩秋でなく初冬でもなく初春とも違う真冬です。此処に来る以前は、11月は秋、12月も半ばまでは晩秋か精々初冬で、冬を実感するのは年が明けてからじゃありませんでしたかね。3月に入るとまだ寒さは厳しくとも春の足音が聞こえます。僕たちが厳密に冬だと思っていたのは1月2月の2か月間ではなかったでしょうか」
「…まあ、そうかもしれんな」
「ですが此処では冬は、あなたももう3回体験しているからお分かりでしょうが、12月から3月まできっかり4か月はあります。倍です。内容も、同じ冬でも空は晴れ寒いだけの季節、太陽を殆ど拝めない雪に閉ざされた季節と、大きく違っています」
「それが?」
「一言に冬と言っても人や環境によって長さも重みも違うということですよ。春までの距離もね」
 それだけ言い捨てて古泉は耳まで布団を被り俺に背を向け目を閉じた。
 猫だましを食らったように、一瞬、何も考えられなくなった。思考が回復した時には古泉は既に眠りについており(あるいは眠ったフリをしており)切り返すことはできず、諦めて、俺もスウェットを着て布団に潜り込む。
 今はまだ、と言ったのだ、古泉は。俺がもうそろそろ良いだろうと言ったのに対してまだだ、と古泉は。いずれは決着をつけるつもりでいるから待て、と。俺の尺度で口出しをするな、そう。
 冬を引き合いに出されては今の俺は黙るしかなかった。


■■■


 翌朝、昨日の青天とはうって変わり、再び空は雲に覆われ白き使者をつかわせていた。
 いい加減うんざりだったが数週間前に比べると降りに力はなく地に降りても長くとどまることは容易ではないように思えた。少しずつ、少しずつだか春に近づいて行っているのだ。
「じゃあな、古泉、また」
 返事を寄越さぬ家主に声をかけアパートを出る。
 真冬には一面を覆い尽くしていた雪は、今は歩道にすらまばらだ。
 関東や関西、雪に馴染まぬ土地では人々はその異端者を排斥する術を善く知らず僅かな降雪であっても長く地に留まっている。だが雪国では追放の手に容赦はない。まず車道、そして通勤通学に使われる歩道、家の周囲の順で、住民が一丸となり雪を取り除きにかかる。おかげで、豪雪の後でも3日、今の時期なら1日降らなければ主要な道路から雪はなくなる。当然、新たに降ったところでそれは、まず、地面を覆う雪でしかない。
「…今年もダメだったなぁ…」
 冬を迎えたらやりたいことがあった。
 3年前の初夏に思い描き、冬になったら…と、極度の寒がりの癖に待ち侘びた。
『お独りでどうぞ』
 だが、叶わなかった。
 何度誘っても古泉は乗ってこなかった。
 あえて雪の残る場所を歩くが水気を多く含んでミゾレ状態となったそれは、むしろ砂利道に近かった。
 雪を踏みしめると何より大地に足を下している実感がする、そう古泉に聞いた時から、俺は冬になったら古泉と雪道を歩くことを憧憬していた。古泉が雪を踏みしめる隣で俺もまた雪を踏み、その感触を分かち合う気でいた。
 だが俺たちの仲は古泉の狭い部屋の中で収束し、共に外に出て過ごすまでにはなっていない。
 一人でなら、踏んだ。降り積もり踏み固められた雪の上にさらに横たわった雪をぎっぎっと踏みしめ「ああこれが古泉の言っていた大地か」と涙しそうにもなった。
 古泉と共に歩きたいと思い、静まり返った雪夜に散歩に誘ったことが何度もある。だが古泉は決して、首を縦に振らなかった。俺の意図など承知した上で拒否し続けている。古泉にとって、壁に囲まれたアパートの一室でなく冬に閉ざされた雪道こそがテリトリー、拠り所で、俺なぞが共有して良い場所ではないということなのだろう。体をつなぐより、よほど深くの…。

 小雪だからと傘をささずに歩いていた帽子の上が、粉ふるいをかけたように徐々に白くなって行く。雪足が強まり、風も吹いてきた。まだまだ季節を明け渡しはせぬぞと言われているようだった。
 身震いをし、ダウンコートの襟を閉じ体を丸める。
 古泉の、そして北国の春はまだ遠いようだ。






雪国の人も、そうじゃない人も、キョンに「おいおい」と突っ込みながら読んでもらえれば幸い。