4. キョン




 重ね合わせた肌は、想像していたよりずっと滑らかだった。
 いかに顔立ちが整っているとはいえ男、しかも常人には関わり得ぬ修羅場を潜り抜けて来た身だ。団活で幾度となく目に入る機会のあった裸体は鍛えられた筋肉で引き締まっており、触れたことはなくとも雄々しかろうとは想像していたのだが。
 外気でなく内からの熱による汗に滲んだ腕に、胸板に、手をおくとするりと滑った。肌質はきめ細かく撫で下ろすに何のひっかかりもなかった。
 とは言え所詮男だ、女の皮膚の弾力ある柔らかさはない。壊れるのでないかと思うほど儚げでいて、柔軟に形を変え無骨な俺を全て受け止めてくれたあいつとは違い、男の、古泉の肌は頑強で、どれだけ力をかけても形を崩すことなく俺を押し返してきた。
 そうだな、柳のしなやかな強さと鉄の頑丈なる強さの違いといったところか。
 たった一人の肌しか知らない俺が比べるものではないのかもしれないが、その違いにも類似にも、戸惑いに似た不思議を感じていた。



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 今年の梅雨は早々に明け巷は既に初夏に染まっている。雪国とはいえ本州の北よりに位置するこの地は最北の大地と違い一般家庭でのエアコンの普及率が九割を超える程度には夏は訪れるらしい。とは言え、じめつく梅雨が明けた途端、灼熱が襲う地元とは違い、太陽は遠慮がちに夏へと歩みを進め吹く風は早春なみの爽やかさを残していた。
 新緑が萌ゆるに反比例し、新生活を向かえた学生達は環境に慣れ落ち着きを取り戻していた。
 俺も、戸惑いの四月、怒涛の五月、翻弄の六月を乗り越え生活がルーチンの中に組み込まれるようになってきている。
 古泉とのセックスもだ。
 体を重ねるようになって、一ヶ月ちょい過ぎた。
 奇妙な成り行きで始まったこの関係は一度きりの過ちでは終わらなかった。
 前触れも根拠も無い唐突なシーンだったので、現実感が薄く、日常からは浮き、無かったことになるのかなと漠然と思っていたが浮いていただけに何の理由もなく日常に挿入することが可能だったらしい。その瞬間はいつも突然だった。
 頻度はそう高くない。相変わらず俺は二日と空けず古泉の部屋に押しかけているが、事に及ぶのは週に一度、良くて二度だ。まあひょっとすると花婚式を迎えた夫婦よりは頻繁かもしれんが、十代の性生活としてはかなり少ないだろう。
 「セックスしましょう」と言葉で誘ってくることはもうない。何の前触れなくいきなり手を引かれ口付けられる。
 最初はいつも口付けだ。浅くはないが舌は入れられず、一瞬で離れて次の行動までやや間が空く。多分この間の時に拒絶すれば続きはないのだろう。一度も拒んだことはないので推測にすぎんが。
 セックスしようと言われてあっさり乗った俺だったが、古泉がキスをしてきたのには驚いた。古泉は俺にキスなぞしてこないと思っていたからだ。
 セックスは性欲処理でもキスは好きな人とでないと…というロマンチシズムを持っている、とは思わなくとも、古泉という男は他人と距離をとりたがる、必要以上に近付くことを厭っていると思っていたからだ。だから、セックスをする時も、下手をすると服を脱がずに必要最低限の露出しかしないのではないかとすら思っていたのだ。
 だが古泉は当たり前のようにキスをし、全裸になり、丹念に前戯をした。
 高校時代の俺は、古泉のことを、テリトリー意識が強く本来は他人と打ち解け難い気難しい男だと思っていた。誰にでも愛想が良い人当たりの良さは、ハルヒの望む古泉像として作られたもので、その笑い仮面の下は誰にも触れさせない不可侵の鉄門が聳え立っているものだと思っていた。
 だが古泉は予想に反して赤裸々だった。
 キスや愛撫に関してだけでない、イく時の顔というものも全く隠さず見せた。
 絶頂時の顔と言えば、寝顔よりよほど無防備だ。人間の、社会では取り繕っている知性を剥ぎその下に隠れた獣を露わにする。知恵と理性でもって他の生物より秀でているを拠り所としている人類にとって、恥辱の一瞬だ。羞恥心がある人間であれば、惚れた相手にでもなければ見せたくはない。
 だが古泉はまるで隠さなかった。
 明りの点いたままの部屋で正面から俺を抱き、愛なぞない分、余計な装飾もなく素のままの表情をその顔に浮かべた。
 他人に本心を見せない男だと、ずっと思っていたが、本心を見せない男であるかのように演じていただけで、元々自分の心の内を隠すことに無頓着なのかもしれない。あの笑い仮面は、その無頓着な己を隠す為のベールだったのかもしれない。
「何故拒まないんですか?」
 四回目の時だっただろうか。服を脱ぎ捨てた辺りで古泉が聞いてきた。
 ただそれは答えが欲しかった問いではなかったようで、直ぐに今問うたことを忘れたように俺の胸に顔を埋め次の作業に移っていった。
 何故、拒まないのか。
 古泉に問われるまでもなく既に自問していた。
 二回目以降に関しては『一回ヤれば二回も三回も同じ』だ。さしたる理由はない。
 最初に拒まなかった理由は…、…何だろうな、自虐と同情と好奇心といったところだろうか。
 あの時俺は、未だに癒えぬ心の傷を自分から開いて晒した。
 今もってなお、あいつとのことは心の傷だ。思い出すたびにズキズキ痛む。今でも、誰より愛している。「愛している」なんて言葉、こっ恥ずかしくて別れを切り出されるまで言ったことはなかったがな。
 あいつでなければ誰でも一緒だと思った。
 それほどまでに愛していたのに諦めてしまった。あいつを繋ぎ止められなかった俺の不甲斐なさを罰して欲しいと思った。また、痛めつけられれば、それにかまけて他の痛みは忘れられることが出来るんじゃないかと期待した。
 古泉に誘われたというのも大きい。出会った頃からこいつは、一度も俺に何かして欲しいと願ったことはない。ハルヒ絡みの依頼はしょっ中だったが、あれは機関の思惑であり古泉自身の望みではない。唯一、あれがそうだったのかも…と思うのが、時間遡行の説明の時に見せた興味だ。あれは俺がどうこう出来る問題じゃなかったので叶えてやることは出来なかったが。
 その古泉が俺に求めてきた。しかももの凄く楽しそうに、だ。歪んだ楽しさであるとは言え、そんな楽しそうな顔を見たのは初めてだった。今まで散々押さえつけられ迷惑をかけられ続けていたんだ、望んでいるのなら、余程のことじゃなきゃ叶えてやりたい、ってなっても不思議じゃあるまい?
 男とセックスするのは余程の事じゃないのかと突っ込まれそうだが、俺はその時は大したことじゃないと判断した。童貞だった頃なら違っただろうな。セックスは好きな人とする、一種神聖な行為だから男,女でなく、惚れてもいない相手とするもんじゃない、と。だが俺には恋人が居た。経験もあった。経験して初めて分かる、想像していたのとは違う真実、ってあるだろう?セックスという行為が神聖なんじゃない、好きな相手とすることだから大切なんだ。愛もなければ義理立てする相手もいない、男同士だから後に社会的責任の発生する心配も無い。放課後の暇つぶしのボードゲームとさしたる違いはないさ。
 それと、古泉がどんな顔でセックスをするのか興味があった。何度も言うが、行為の最中ってのは人は獣になる。
 どんな取り繕った人間でもイく瞬間ってのは無防備だろう。その時に顔を見せない可能性はあったが、仮面を剥がしきった古泉に興味があった。
 古泉は隠さなかったが、特筆するものはなかった。古泉がイくならこんな顔をするだろう、という顔をしていた。
 …いや、昔の爽やかイケメンスマイルや、再会してからのほの暗い冷たい態度を思えば、頬を紅潮させ汗を滲ませ恍惚と腰を動かす様は、かの南方の離島で猫科の天然記念物と遭遇するより珍しいかもしれんが。
 それより、その前の過程のあいつに目を奪われたのだ。
 口と手で愛撫を繰り出していた時はどんな顔をしているのかは見えなかった。ただ、時折笑っていたのは肌にかかる息で感じていた。互いのモノを擦り合わせて一緒に果てた後、古泉は半身を起こし俺の後腔を探った。その間、古泉はずっと俺を見下ろしていた。
 空いた片手で俺の片足を持ち上げ、立膝をついた太股に俺の尻を乗せもう片足をぞんざいに打ち捨てることで開かせ、穴を寛げた。
 本当に男とヤったことはないのかよ、という手馴れた動作だったが問題はそこではない。
 …目だ。
 その時の、古泉の、目。
 俺を見下ろし凝視する眼差しが、とても異様だったのだ。
 闇の中で光る猫の目のようにかっと開き爛々と輝き、だのに何も映していなかった。
 未知なる不思議なるものを見る目で俺を見る、お前の方こそ不可思議だろうに。
 肌も息も性器も興奮に染まっていたのに、そこだけが切り離され不気味に冷たく光っていた。
 口元は時々笑いの形に歪んだ。
 俺が痛みに悲鳴を上げた時、苦しさに顔を歪ませた時、圧迫されて喘いだ時、古泉は嗤った。
 嗤いつつ、目は冷たく光っていた。
 どこかまともな精神状態でなかった俺は古泉の繰り出す前戯にも、男の手でイかされたことにも特に何とも思わなかったが、ケツに指を突っ込まれた時は流石に気持ちが悪く、背筋に悪寒が走った。
 男の矜持から、多少痛かろうがやせ我慢をするつもりだったが、古泉が楽しそうに笑うので、半端なプライドは引っ込ませた。
 声をあげれば、痛がれば古泉は笑う。加虐的な、健全とは言い難い笑みだったが、奇妙な光を放つ眼差しと相まって、ある種の神秘すら見え、魅了された。美しいとすら思った。
 ナカを引っ掻き回され、気持ち悪いわ痛いわで、どれだけほぐしても侵入は容易ではなく、背中の皮を剥がされるような痛みと内臓を押し上げられる圧迫とで苦しくて脂汗が出た。全部収まった後でもそれだけで勿論終わるはずがなく、余裕のない内壁を突き上げられいっそ殺せとすら思った。
 一連の行為で快感を拾えなかったのに、しっかり達した。古泉の手技のお陰もあるが、あいつの表情に興奮したというところも大きい。
 余談だが、挿入を伴うセックスが苦痛だったのは過去のことである。全く、人間の体ってのはある意味柔軟に出来ている。
 とにかく、一つ二つでない様様な思いがせめぎ合い、俺は古泉を受け入れた。受け入れ続けた。


 古泉はベッドを背もたれにし、足を放り出しぼうっと座っている。
 ついさっきまで本を開いていたのだが、読み終わったのか、閉じられ、脇に置かれていた。
 再会した頃のことを考えると随分と丸くなった。昔のように人好きのする顔で話しかけてきたり胡散臭い笑顔を近付けたりはしないが牙を剥いて噛み付いてくることもなくなった。俺が慣れただけかもしれないが、蛇蝎を見るような目つきもなくなった。
 元々、気の良いヤツなんだと思う。懐かれれば邪険にしきれない優しさを持っている。
 セックスをした所為で、肌だけでなく普通は他人に見せることのない、本能に支配された顔なんてものも晒したものだから、取り繕う意味がなくなったからかもしれない。
 点けっぱなしのテレビから気象ニュースが流れてくる。全国的に高気圧に覆われているようで、お日様マークの大安売りだ。だが天気は似たようなものだったが、南北に長い国土なだけある、最高気温はかなりの隔たりがあった。
「うわっ、大阪明日32度かよ!こっちより10度も高いじゃねーか!やっぱり北国の夏は過ごし易いんだな」
 逃げ場のない灼熱を思い出し純粋な感嘆の声をあげる。独り言だったが、古泉が聞きとめた。
「その分、冬の寒さは比ではありませんよ」
「へえ?雪とか降るのか?」
 普段は明確な質問でも無視することのある男の気まぐれに内心驚きつつ、間の抜けたことを口にする。何故この地が雪国と呼ばれるか知るものなら聞くはずのないことだ。
 古泉は相変わらず魂が眠ったままのような目をして正面を見据えていた。
「11月には初雪が観測されます。12月の半ばには天から降る水は全て雪となり、3月が終わるまでどこかしらに雪が残り完全に消えることはありません。
 市街地はそうでもありませんが、この辺は山ですからね、公道はともかく、大学内の私道は冬中白い絨毯を敷き詰めたみたいになりますよ」
「へぇ」
 今は新緑の季節で、大学の構内は地面も木々も緑に覆われている。これら全てが白に変わるというのだろう。なんとなく想像は出来る。雪国でないとは言え関西では雪は決して珍しいものではない。1シーズンに数回は必ず降るし、路面を覆うこともままある。
「ここの雪は向こうの雪とは別物ですよ」
「…まあ、そうだろう。合宿で行った雪山みたいな感じか?」
 思い浮かべた風景を否定されたので軌道修正する。が、古泉は緩く首を振った。
「あそこでは雪は歓待される冬の使者です。地元のものにとっては貴重な観光資源ですし、来訪者にとっては遊興の源ですからね。整えられることはあっても、倦厭され排除されることはありません。無理矢理溶かされたり、どかされたりすることもなく、人々は天の与えた純白を楽しみます。
 でも人が日常に生活するここいらでは雪は脅威で邪魔者です。完全には無理ですが、可能な限り排除が試みられます。道路には融雪装置が敷かれ、家々は「雪かき」という人力による除雪を行い、アスファルトが雪に覆われないようにします。ですがそれは生活の為に必要だから致し方なくしているので、自然の猛威には敵わず妥協がされます。
 車が通る範囲、人が通行するのに不便すぎない最低限の道だけ確保し、後は次なる自然の力、春の到来が根雪を溶かすのを待つんです。結果として主要道路は雪の路側帯により道幅は狭まりこそすれアスファルトを剥き出しにし、除雪の追いつかなかった私道や間道、民家の前、庭や公園と言った人通りの少ない場所、障害物があればあえて踏み込まない地帯は雪に覆われることになります。
 スキー場や雪山のように調和の取れた一面の白銀ではなく、漆喰の剥げた壁、子供が半端に食べ散らかした料理のように無秩序にまだらになります。人知が及ぶのはそこまでだと言われている気がします」
「ふうん?」
 古泉は淡々と、相変わらず横に座る俺をちらりとも見ず前を向いて話していた。
 暫く言葉を切る。
 どう切り返せば良いのか分からないので俺も黙ったままだ。
 精々その光景を思い浮かべようと努力する。だが古泉の思う情景には追いつけることはないのだろう。
「雪を、踏みしめたことがありますか?」
「は?雪を?」
 突然問われても軽やかに返すことが出来ない。雪道を歩いた経験はある。雪山合宿の時だけではない、一昨年の豪雪(関西にしては、だが)の時には皆で寒いだの滑るだの騒ぎつつあの坂道を下りた。当然、古泉も居た。
「僕は去年の冬、ここで初めて雪を踏み締めて歩きました。
 雪山の、テーマパーク感覚としてでなく、地元での、すぐに去る滅多にない闖入者としてでなく、冬の隣人として」
「…」
 再び、沈黙。
 古泉は伏目がちに何かを思い返しているようだったが、俺にはその意図がまるで汲み取れない。
 まどろむように頬を緩め、歌うように穏やかに、古泉は言葉を紡ぐ。
「雪をね、踏み締める感触、好きなんですよ。
 都会のように、足の圧力ですぐに溶ける、アスファルトが下にあることが分かる雪でなく、踏み固められ溶けるとは思えない硬い雪の上にさらに積もった雪です。
 踏むと、ですね、力のかかりによってぎゅっと沈んで足を受け止めるんです。何の反発も享受も感じないコンクリートと違い、僕の踏み締めを受け入れます。
 砂浜と似ていなくもないですが、砂は足を飲み込むように沈ませ、そのくせ足を上げると何事もなかったように元に戻ります。そこに僕の居た痕跡はない。
 でも雪は違う。踏むとぎっと鳴り、足に確かな感触が残ります。雪の硬度には段階的な変化がありますから、その感触も漸次足を上ってきます。踏み締めているという確かな実感があります。しかも雪は砂のように戻りません。僕の証をそこに残します。やがて溶ける、もしくは新たな雪により隠されますが、それは確かな痕跡です。
 雪の上を歩いている時僕は、土よりアスファルトより何より、大地を踏み締めていると実感できる。僕は、地に足をつけているのだと、そう思えます」
「…」
 古泉が語る、雪を踏み締める感触というのは、分かるようでいて分からない気がした。俺たちのようなエトランゼには理解できないと思うからこそ、古泉は語ったのだろう。
 古泉も伝えきれていないようだった。理路整然とした説明を得意とするこいつが、どこかもどかしげだった。
 雪を踏み締める感触は想像できないが、古泉が何故それを好きなのかは推し量ることはできる。
 能力者としての五年間、古泉はハルヒの作った異空間で、世界の存亡だけでない、己の生死もかけて闘ってきた。
 自助で空を飛ぶという感覚を、俺は決して体感することはない。だが、生態上自らで飛ぶ術を持たない生き物が、摂理に反して空を駆けるのは相当な負担があることは想像できる。
 空を飛ぶという非現実が、現実世界の輪郭をぼやけさせ、夢と現の境界を曖昧にしていただろう。
 地面を歩いていても、己の立ち位置に自信が持てず、これは本当に現実なのか、それとも悪夢なのかと疑う。…あいつに振られた時は俺もそんな感じだった。
 そんな中、雪を踏み締めるという行為、大地に足を沈めているという手ごたえは、この世界が紛れもない本物であると古泉に教えたに違いない。
 憶測にすぎんが。
「本当は、もう良いんですよ」
「…ん?」
「僕はもう涼宮さんを憎んじゃいない。厳密には、まだ憎しみはあるけれどもそれは“涼宮ハルヒ”に対するものじゃない。そもそも僕には彼女を恨んで良い権利はどこにもない。
 だって僕は彼女を一個の人間として見たことは一度もない。彼女は僕にとって、ただ“神に等しき力をもつもの”という記号に過ぎず、人ではありませんでした。一目置いていたのはその力ゆえですし、彼女といて“楽しかった”のは神の力を持つものに認められた優越感からです。稀有な力を持つ彼女に仲間と目された、そんな僕自身が特別であると自尊心を擽られたからです。彼女自身が好きだったわけでも、だから“捨てられて”哀しかったわけでもない。
 僕自身をひとかどのものであると認定していたワッペンが剥がされた、それで怒り、腹を立て、憎んでいたんですよ。過去を返せと言ったのも、彼女が居なければ過ごせた日々を寄越せと言うんじゃない、僕が特別だったあの頃を返せと言うんだ。そう、僕はあの時代を楽しんだ。それは、涼宮ハルヒが居たからじゃない。彼女の力によって僕が別格の存在であれたからなんだ。
 …あなたたちだってそうですよ。朝比奈みくるは未来人という記号。長門有希は宇宙人という記号。僕を飾るに相応しい特異な装飾だったというだけで、彼女ら自身の人格だの人間性だの、全く認識していませんでしたよ。
 …そんな、人を人とも思わない僕が、誰かを恨む筋合いなぞない、とんだお門違いなんですよ」
 古泉の表情は変わらない。あくまで淡々としている。他人事のように、己の感情を吐露している。だがそれは吹っ切ったからではなく、心を切り離して外から眺めているからだ。そうしないと話すことのできない、まだ深い傷を抱えて苦しんでいるのだ。
 ふいに、怒りとも悲しみともつかない感情がこみ上げてくる。
 そんなことでお前は苦しんでいるのか。そんなバカげたことで、お前は。
 今まで俺は、古泉はハルヒに捨てられたことを恨んでいるのだと思っていた。が、そうではなく、自分が特別な人間でなくなった、自分を特殊たらしめた力を取り上げたことでハルヒを恨んでいたのだという。
 だが今はそんなことが問題じゃない。恨みたければ恨めばいい。正統な理由があろうがなかろうがだ。
 そんなことではない。古泉が、自分にはその資格がないと言ったことが問題なのだ。人を人と思わぬ人非人だから、他人を己の人生に出現する記号としか思えぬ人でなしだから責める分際ではないのだと。
 そんなの、誰だってそうじゃないか。
 程度の差こそあれ、人は他人を記号化する。隣人、クラスメイト、担任。近しいものであっても、親、恋人、恩師という風に。古泉が言うのはもっと情緒的なことだと分かるが、それにしても、そういう人間性が欠如しているからと言って他人を感情的に断じることは出来ないなんてこと、あるわけがない。そんな風に理性で割り切れないものが感情だからだ。
 権利が何だというんだ。理不尽に怒る権利であれば、古泉こそ持っている。
 古泉は何一つ悪くない。青春を削って、命を張って、自分を殺して戦ってきたというのにだ。
 俺は初めて、ハルヒを恨んだ。
 なんで、こんな真っ直ぐな男を選んだ。
 外見と作られた人格の所為でチャラい男ととらわれがちだが古泉は本当は何事にも真摯で、勤勉な人間なんだ。
 俺みたいに、いい加減で、てめぇの心の傷に向き合えない臆病者なら、否定されたら仕方がないと、それはそれで割り切って  見て見ないふりをして  心に空洞を抱えながらもハルヒと付き合って行けただろう。権利どうこう、わけのわからない理性に囚われず、ハルヒを恨み、だのに己を特別たらしめた神の手を離せず付き合い、そのうち憎しみは薄れていっただろう。
 振られて傷付きながらも友としてのあいつを手放せないみたいにな。
 だが古泉は出来なかった。
 己自身の気持ちの整理、ハルヒとの関係、全てに、一つずつ決着をつけなければ前に進めなかったのだ。
 今だってそうだ。
 憎しみを抱えたかつての超能力者にジョブチェンジしたようにみせかけ、過去を清算しきれず宙に浮いている。頼りなく漂い地に足を着けること叶わない。
 先へ、未来へと進みたいのに足元に絡まる呪縛を解けず身動きが取れない、どこに道があるのか見当もつかない。
 古泉の絶望が押し寄せてきて俺自身も闇の淵に取り込まれそうになったその時、密やかな音色を聞いた。
 ぎっ、ぎっという無骨なようでいて無垢な楽音は、まだ出合っていないはずの、地を踏みしめる音だ。
 人気の無い雪道を、はらはらと雪が落ちる中、背筋をやや丸め、古泉が惰性で足を進める。
 心此処に在らずの淀んだ目つきだったが、雪を踏みしめる下半身とマフラーの端から見える口元は微かな力を持っている。
 ぎっ、ぎっと、古泉が大地を踏みしめる度に音が鳴る。音には色も形も無く、鳴った瞬間に消えるが確実に古泉の耳に届き、足元の感触とともに古泉を地表に繋ぎ止めていく。
 少しずつ、古泉の目に精気が戻る。少しずつ古泉は、地表にと戻ってくる。
 そうだ、雪だ。大地のものでも、空のものでもない、確固とした、だがしなやかな。
 雪が古泉を癒してくれるに違いないと、俺は思うというより縋った。
 俺自身はそんなものが有効だと思っているとは言えなかったが、ただ古泉の憧憬に縋った。

「何ヘンな顔をしているんです?」
 古泉が不思議そうな眼で覗き込んできた。
「…っ、あ、暑さでぼーっとしていただけだ!」
 苦し紛れの誤魔化しだったが、それ以上突っ込んでは来なかった。古泉にとってはどうでも良いことだったのだろう。
 再び俺に興味を失くし、ぼうっと空を見上げる古泉に見入る。
 窓から差し込む夕日を受け、その横顔は赤く照り、だのにどこか寒々としていた。
 俺は何も言えない。
 俺ごときが言えることは何もない。
 今、古泉は必死で、己の内を覆う凍土を踏み締めているのだろう。

 再び、ぎっ、ぎっ、と雪を踏む音が、幻聴として聞こえる。
 古泉が、根雪を踏み締め大地を実感する風景が浮かぶ。慌てて、俺はその横に舞い降りる。嫌がられても疎んじがられても、慣れない雪に足を取られつつ共に踏みしめてやる。古泉の手を握り、今度は決して離さない。古泉が、古泉の地表を取り戻すまで、決して。
「…冬が楽しみだな」
「?」
「俺も、雪を踏み締めたい。お前が感じたように、地に足が付く感覚ってのを味わってみたい」
「そんな口を聞いていられるのも今だけですよ。南から来た学生は大概雪国の厳しさに音を上げますから」
 ぞんざいな口調だったが、どことなく嬉しげだった。俺が寒さで震える姿でも想像したのだろう。
「…楽しみだよ」
 冬まだ遠い初夏の色彩の中、俺は、古泉を大地に繋ぎとめる雪と、その根雪をも溶かす春を待ち望んだ。