4. 古泉




 真一文字に結ばれた唇に、ゆっくりと自分のそれを落とす。
 その唇は薄くざらついていたが、そこそこに柔らかく暖かく、男だからといってさしたる違いは見えなかった。
 口は閉じられていたけれども天岩戸の強固さはなく田舎家屋の夏の縁側簾のように少し押すと自然に開かれた。
 舌を進入させるとすかさず絡め取ってくる。その間も手はシャツを剥ぎ取ろうとボタンと格闘を続ける。なるほど、随分と手馴れている。相手は一人でも数はこなしていたのだろう。
 セックスしませんかと誘った時、彼はほんの少し訝る顔をした。だがすぐにいつもの顔になり、暫し僕の目を見つめた。
 真意を探ろうとしたのだろうその双眸は僕の目の中に何を見つけたのか知らないが、全く表情を変えず「良いぜ」と言った。何の気負いも不安も感じられない、現実離れしているようでいて自然な声だった。
 彼の眸に映る古泉一樹の顔は、相変わらずとても楽しそうに、笑っていた。

 絨毯に夏物のシーツを敷くだけした急場ごしらえの閨の上に横たえ口付けると、彼はとても奇妙な顔をした。
「なんです?怖気づきましたか?良いですよ、今ならまだ止められますよ」
「や、そういうわけじゃない。お前はこういうセックスにはキスはしてこないと思ったから…」
 愛も情もないセックスに、という意味だろう。可愛らしいことだ。
「何が可笑しい」
「いいえ?見かけ通りロマンチストだな、なんて思っていませんよ。
 キスを神聖視する輩は男でも多いようですけどね、僕にとっては手順の一つに過ぎません。愛だの恋だの挿まない行為だからこそルーチンに従って進めていく方が合理的です。アブノーマルな行為だからと言って普段と違うやり方をしたりはしませんよ。そんなの、手間じゃないですか」
 バカバカしい、と鼻で笑うと彼は嫌な顔をしたが納得したらしい。一つため息を吐き続きを目で促した。
 セックスしようということになって、彼はごく自然に受身の形を取った。
 自分から仕掛ける気はないというポーズのつもりかもしれないし、男に乗っかかる趣味はないという意思表示なのかもしれない。
 僕にも男に乗る趣味はない。興味もない。セックス自体にも食指は動かない。
 かつては、日々のストレスと不満をセックスで昇華させられると勘違いをし、のめりこんでいた時期も有ったが、どれだけ女を抱いても、その一瞬は煩わし事を忘れることは出来ても完全に解放されることはない。ひと時の快楽の為に睦言や手管を用意するのは面倒で、そういう手間の要らない、利害の一致する相手を選ぶようになったが、機関を離れて以来、相手を探すのも億劫ですっかり回数は減っていた。
 Tシャツをたくし上げ、現れた胸の突起に歯を立てる。息を飲む音が頭上でした。
 柔らかい膨らみもない、真っ平らな胸を撫で、舌を這わせる。どれだけ胸のささやかな女性でも類似しない肉質に、違和感や嫌悪より、子供じみた興味を憶える。力を入れればもげてしまいそうな豊潤な果実ではなく、鍬を入れ耕しても易々とは肥えぬ大地を思わせる。噛みついても、力任せに揉みしだいても形を変えず、いたぶるのに何の気兼ねも要らなかった。
 胸板ごと食むように突起を嘗め回すと、骨ばった指で頭を掴まれた。
 制止ではない。
 手持ち無沙汰と居た堪れなさからだろう。受け身の立場ではそうするか、喘ぐかしかない。
 頭に回した手で頭皮を揉まれ、髪を撫でられた。存外気持ちが良い。
 彼の乳首は立ち上がり、胸は荒い呼吸で上下している。心音は普段の倍くらいだろうか。
 見上げると、顔も目もほんのり染まっていた。
「…続けても、大丈夫そうですね?」
 口にすることで、自分にも確認をする。
 平気だ。嫌悪はまるでない。
 一度起き上がってボタンのはだけたシャツを脱ぎ捨てた。彼も半身を起こして倣う。服を脱がないセックスもあるが、僕はそういうプレイでもない限り必ず全裸になっていた。
 ズボンのボタンに手をかける。僕のではなく彼の。彼もまた倣い、僕のベルトのバックルを外そうと、手が前で交差した。
「…やり難ぃ…」
「先に脱がせて下さい。それから僕が脱がせますから」
 てめぇで脱ぎゃ良いじゃん、と小声で文句を言ったが彼は従った。
 露わになった互いの裸体を、性器を、僕は凝視する。
 まだ殆ど立ち上がっていない。だが、僅かに頭をもたげている。彼のものも、僕のものも。
 コレを目の当たりにした時、どういった感想を持つのが普通なのだろうか。
 何か答えを見つけようとするのだが、何の感慨も浮かんでこない。
「どうした?怖気づいたか?今ならまだ止められるぞ」
 先ほどの僕の言葉に準えた台詞に我に返る。
 返事の代わりに彼の牡を力任せに握り締めると、彼は喉の奥で悲鳴を挙げた。

 僕はゲイではないし、好奇心旺盛な方でもない。
 モラリストではないし、過去を振り返って自分に当てはめられるとは言いがたいが、セックスは、愛し合うもの同士か、性欲処理の利害関係が一致したもの同士でするものだと思っている。
 だのに今、この人とセックスをしている。
 一方的な暴力行為ではない。
 性器を寄せ一緒に擦りあげた時は彼も手を添えていたし、彼の方からも僕の体に触ってきた。
 心の底にどんな冷えた塊があろうが、愛などないと心を否定しようが、肉体はしっかり反応をした。
 睦言も情熱もなかったが、目は熱く潤み、熱っぽい吐息が漏れ、性器は脈打ち、欲望を吐き出した。その様を冷静に見下ろしている僕も、汗に濡れ体を火照らせている。だから、熱病に浮かされたように熱り呼吸を荒くする彼も、心の中では醒めた目で僕を見上げているのだろう。
「…あ…」
「嫌ですか?」
 後ろの窪みに手を回すと僅かに腰が引けた。流石に抵抗があるのだろう。逃すつもりのない僕は太ももに腕を巻き込み固定する。
「触り合っただけじゃセックスとは言えないでしょう?それとも、怖気づきましたか?でも…」
「誰が怖気づくか!ちょっと驚いただけだ!…そういうお前こそ、ちゃんとできるのか?男は初めてだろうが」
 この期に及んでの強がりに笑う。
 『もう止まりませんよ』という台詞は行き場を失った。
 しかしではなるほど、彼は彼女とはごくノーマルなセックスしかしなかったということだろう。残念ながらと言うべきか、男とは初めてだが僕は、アナルを使った経験はあった。
 脇に用意してあったクリームをこそげ取り、いきなり二本の指を突っ込む。
    っ!」
 未知の感覚に衝撃を受けたようだが、強がった手前、醜態は見せられないと思っているのだろう、必死に悲鳴をかみ殺している。
 その様が愉快で、僕は片腕で太ももを引き寄せ足でもう片足を思い切り広げ、彼の痴態を見下ろしたまま後穴を弄くり回す。強弱をつけ、抜き差しを繰り返すとそのたび体が跳ね、左右に身悶える。
 いつの間にか、先ほど果てた僕の男根が天を向いていた。
 それに気付いた途端、渇きに似た欲心が一気に涌いた。
 この体を貫きたい。
 長らく感じたことのなかった、本能の衝動だった。





 皴だらけになったシーツにうつ伏せになったじっとりと汗ばんだ裸体を見下ろす。
 情事の後の独特の倦怠感に加え、節理に外れた行為の所為で、傍から見ても分かるくらい、ぐったりとしていた。だが決して傷んでいるようには見えない。体も、心も。
 先ほどまでその体内で暴れていた己の分身に目をやると自らが吐き出した精にまみれてしんなりとしている。
 萎えた、というより満足して眠っているように見えた。
 僕の牡は、男のケツの中で絶頂をむかえ、吐精した。冷静に考えるととんだ喜劇だったが、嫌悪感もなければ後悔もない。
 入れる目的で創られていないその場所は、お世辞にも具合が良いとは言い難く、入れる方も苦しく、入れられた彼は更に辛かっただろう、目に涙を滲ませ押し殺した悲鳴を上げていた。
 後ろの穴は狭いから締め付けが強くて良いなどと言われるが、伸縮がまるで違う。伸びの悪い木綿の布が撒きついているようなもので、こちらの動きに合わせて吸い付く感覚はなく、融通利かせず僕を引き止めた。気持ち良いより痛いが勝った。
 それでも僕は、この人とのセックスに満足した。
 それは、僕が今求めていたのは性欲の昇華ではなく、暴力、破壊だったからだろう。
 この人は、男性にしてみれば決して強健な方ではない。
 高校の三年間で、通学時の登山と、無茶振りをする暴君に鍛えられたとはいえ体育会系の逞しさはなく、基礎体力の向上に気を使ってきた僕より細く、筋肉も薄かった。
 それでも、僕が経験した女性達のように、加減しなければ壊れてしまいそうな危さはない。
 僕は遠慮なしにこの人の体を掴み、力任せに膝を割り、流れる涙に怯むことなく腰を打ちつけた。それでも、この人はびくともせず僕を受け止めた。
 男とのセックスの良い所は力加減が要らないところだよ。
 昔、両刀の知り合いがそう話していたのを思い出す。
 いくら加減がいらなくとも、男とヤる自体どうにかしているとその時は嘲笑ったが今ならその言い分が分かる。
 体力的な面でもだ。
 アスリートほどのタフネスさはなくとも、男は一般的に女より体力がある。セックスの満足度は体力と正比例するわけではないが、ハンディを考えどこかセーブをしてしまう、しなければ最後まで使い物にならなくなる心配をしなくて良いのは楽だった。
「…で?」
 じっと見下ろしていると、彼が気だるげに体を反転させ問ってくる。普段使わない部分の声帯を使った所為でか、声がやや潰れていた。
 目は潤んでいるが情欲からではない。先ほど流した涙の名残だ。
「で、とは?」
「俺とセックスして、どうだった?求めていたものは見つかったのか?」
 求めていたもの?このセックスに?
「なんかあったから俺を抱いたんだろうが。好きでもない男を」
 セックスをしたいと思っただけだ。理由なそ…無いのに、男を、しかもこの人を抱けるものなのだろうか。
「何かみつけなければいけませんか?」
 理由を。わけがなければセックスできないのか。
 彼はじっと僕を見上げる。僕はぼうっと彼を見下ろす。
 やがて彼は嘆息し、大儀そうに起き上がる。
「まあ良いさ、見つからないならそれで。…シャワー、借りるぞ。お前の後でも良いがな」
「…どうぞ、お先に」
 カラスの行水で部屋に戻って来た彼は、閉じそうになる瞼を必死に支え、倒れこむように、先ほどまでの情事の痕跡が残るシーツに突っ伏した。
「帰れ、って言うなよ…。今日は、ねむ…」
 最後まで言い切らずに彼は、寝息をたて沈没してしまった。
 今まで他人をこの部屋に泊めたことはない。毎日上がりこんでいたこの人も弁えて夜には帰って行った。居座られたくなかった、一秒でも早く帰って欲しかったから、長居するようであれば追い出しただろう。ただ今まではこの人が、僕が切れるすんでのタイミングで自ら腰を上げていただけで。
 でも今は、この人が泊まると聞いて、同じ部屋で眠ることになって、少しも嫌悪を覚えてはいなかった。
 宇宙人を見る面持ちで僕は彼の寝顔を眺めていた。



■■■



 彼を抱いたことにより何かが変わってしかるべきだったのだろうが、僕自身も、周囲も、何も変わらなかった。彼もだ。相変わらず二日とあけず部屋に上がりこみただだらだらと時間を空費し帰って行く。
 我ながら忌々しいことに、彼が部屋に居座っても大して不快に思わなくなっていた。精神的にも物理的にも距離が縮まったからかもしれないが、彼の輪郭がぼやけてしまっていた。
 高校時代この人は、涼宮ハルヒの鍵などという重要なポジションを与えられながら、ただ凡庸な一般人だった。凡庸な一般人のくせに、常に事件の核心に在り解決のポイントを握るキーパーソンで、だというのにそのことに何のありがたみも感じていなかった。迷惑がっていたわけではない。表面上はそのように振舞ってはいたがあのミステリアスな世界を楽しんでいた。楽しんだ上で、それを得がたい恩恵だと感じず己の資質がもたらしたものだと思っていた。いけ好かないことこの上ない。
 だが今ではその羽をもがれ僕の嫉妬した非凡を持ち合わせていない。
 涼宮ハルヒの鍵というレッテルが剥がれた今、己を際立たせるものなど何も持たない並の男…。何らかの感情を向けるだけの形などない。
 コレの、今一番の不思議、解せぬ特異は僕の部屋に居るということだろう。
 何をするでなくぼんやりとテレビを眺める横顔を見る。
 この男は一体何なんだろう。
 思考することなく湧き上がる疑問は身から立ち上り離れ、自身を束縛することはないが、地球に恋をする月のように、消えることなく辺りを浮遊している。
 視線に気付いてか、振り向いたので目が合う。
 あの二年半、嫌というほど見つめてきた顔だったが、当時かけていたフィルターが外れた今、見知らぬ、奇異なものに映った。
 何の考えもなしに顔を近付けた。
 後から考えると、ただこの奇妙な物体を確認したかっただけの気がする。近付いて正体を確かめたいという、ただの好奇心。
 だがこいつは、顔を近付けた途端、細波のようにいくつもの表情を細かく浮かべた。
 呆れと容認と不審と猜疑と…。…とにかく、この男はそうだと勘違いをした。
 勘違いされたと分かった途端隠微な熱は伝播し、まあ良いか、という気になる。悪くはなかったし暇つぶしにはなるしこいつのカタチを見極めるにはただ見るだけより余程有効な手段だろう。なにより、是が非でも押し退けたい積極的な理由はない。そんな能動的な情を、僕はこの男には抱いてはいない。
 そんな風に二度目の性交は始まった。

 一度きりなら気の迷い、その時だけの過ちと捨て置くことは出来るが、二度してしまえばそういうわけにも行かない。ただ、単なる惰性という別の名が付き同程度に無意味にはなる。回数を重ねたところで、いや、重ねれば重ねるほど行為の意味は薄くなっていた。
 組み敷き、否定しようのない欲の証でナカを穿ちつつ、全身桃色に上気した体を見下ろす。
 コレはナンだ?
 体臭が揮発するのと同じくらい自然に疑問が湧き上がってくる。
 ほんの数週間前までは憎しみの対象だった。
 憎悪、反抗、敵視。
 体を繋げることはただの暴力、言葉の変わりに振り下ろす鉈だった。苦痛に歪む顔を見て溜飲を下げていたのだが。
 …もう、この男には憎しみを感じなくなっている自分を知る。時折ふと、思い出したように胸糞悪さを感じるが、この男だからというより、過去を思い出し腹が立つ、たまたまその時にこいつがいる、というだけの気がする。
 この男は何なんだろう。
 もう一度自問する。
 汗ばむ胸板をなぞっても器しか伝わってこない。本質は、霧の中だ。
 名前、出自、経歴、趣味や癖。便宜上知ることになったパーソナルデータを思い浮かべても硝子板の上を流れる真水のように定着しない。
 “この男は”ではなく、では、僕にとって何か。
 角度を変えて再度観察を試みる。
 僕はこいつを何だと思っているのか。
 そうやって見ると、今までぼやけていた輪郭が少し形を持ってきた。
 少しずつ鮮明になり、ただ、その形状は外観とは決して同じにならない。
 この男は、僕がまだ唯一手を伸ばすことの出来る、あの時代の名残。最も無能ではあったけれど、全ての特異と繋がっていた線。
 つまり、そういう事だ。
 この男の意味、この男に繋がる時代、涼宮ハルヒ。
 ずっと、無意識下では分かっていた。分かっていて、それがどうしたと、己の傲慢で蓋をしていた。
 『お前は、決して特別な人間ではありません』
 まだ、まだ分かっていなかったのだ。
 ふいにこみ上げる笑いを抑えると、涙が溢れそうになった。

 消してしまいたかったのは、涼宮ハルヒでも世界でもなく、僕自身だったのだ…。