3. 古泉




 ついこの間まで、俺には付き合っていた娘がいた。
 僕の隣に、やけっぱちに見える乱暴さで腰を下ろし、そんなことを口にした。
 いきなり何のつもりか分からず眉を顰めると、「聞くなよ」と言われた。
「何も質問しないでくれ。ただ、暫く俺の話を聞いて欲しい」
 その顔は今まで見たことがないシリアスなものだった。壮大な決意を胸に秘めたようにも見えた。
「相手の事は一切聞かないでくれ。何が分かって、何が分からなくてもだ。聞かれたとしても俺は答えない。
 …俺たちが付き合い出したのは、去年の五月の初めで、俺の方から提案した。
 そう、提案だ、告白じゃなく。
 その半月ほど前、俺は…、俺たちは、ある別れを共有した。その別れに際して俺が失ったものは非常に少なかった。心の中にぽっかり穴が開いた気はしたが、俺たちが成長していく過程で有って当然の、前進に伴う別れだったからだ。
 けど、あいつにとってはそれは瑣末なものではなく、存在意義が失われかねない大きなものだった。俺だったらショックで寝込んじまっただろうが、あいつは何も言わなかった。辛いとも、寂しいとも、清々したとも言わず、ただ淡々と、傍目には変わらない日々を暮らしていた。淡々としてはいたが、俺にはあいつがとても無理をしているように見えた。しかも無理をしているのに自分ではそのことに気付いていない。寂しいとか悲しいとか辛いとか痛いとか、たくさん思っていたはずだ。だのに自分の心のうちに目を向けていないから…、向ける方法を今まで誰も教えてくれなかったから、気が付いていなかった。俺はそんなあいつが不憫で、自分ごとに時間を使えるようになった今だからこそ、人らしい生活をして欲しいと、何かにつけ世話を焼いた。
 心の傷を癒して欲しくて、まず心の傷に気付かせようと俺なりに出来ることはした。任務とか関係なく、好きだの楽しいだの、自分だけの感情を持ってもらいたくて、しょっちゅう連れ出し世話を焼いた。
 だが、そうしているうちに俺も、あいつに救われていると気付いた。
 あいつを癒すなんて偉そうなことを言っていて、俺は平気だとか言っていて、その実かなり傷付いていて、寂しくて辛かったのを、あいつに…あいつを構うことで癒されていたと気が付いたんだ。
 それに気付いた時、俺はごく自然に「なあ、俺と付き合わないか?」と口にしていた。あいつは、驚きも呆れもせず、一つこくんと頷いたよ。
 それで、俺たちの交際が始まったんだ」
「…その相手って…」
「聞くな!お前が誰を思い浮かべてもだ!…俺は言わない」
「…」
 一つ大きく息を吐く。
 ここまでの告白はそこそこドラマチックではあったけれどもまだ彼は核心に触れていない。何が言いたいのかまるで見えてこない。
「俺たちの交際は順調だった。俺もあいつも開放的な性格じゃないから、巷に溢れているカップルのように、人前構わずベタベタしたり互いのことしか見えないっていう、盲目状態じゃなかったが、間違いなく恋人同士だった。ちゃんと言ったことはなかったが、俺はあいつのことが好きだったし、あいつも俺のことを好きだった。
 あいつは、俺に先んじて地元の大学に通っていて、地方の大学に進学が決まった俺とは距離が離れることになるが、遠距離恋愛を続けて行くことになる…、続けられるものだと、何の疑問も持たずに信じていた。
 …だが、合格発表から一週間後、あいつは、俺に別れを告げた…。
 『今までありがとう。でも、これからはあなたは、あなたの生きたいように生きて。わたしに囚われないで』
 そう言った」
 そのと時の事を思い出しているのだろう。彼の顔には深い苦悩が刻まれていた。
 まだ僕はこの人の意図が分からない。ただ、あまりに苦しそうで、それが愉快でならなかった。
「あいつは、俺たちの関係は不自然だと言った。俺があいつに抱いている気持ちは愛でなく、同情だと。百歩譲って愛だとして、肉親に対するものと等しく、恋人に対するものではない、と。だからこの関係は継続していくわけには行かない、と…。
 俺は必死で思いとどまらせようとした。お前の事が好きだから別れたくないと言った。
 お前が俺のことを嫌いになった、もしくは他に好きな男ができたというのなら仕方がない、俺は身を引く、けどそうじゃないなら到底受け入れられない、ってな。
 …だがあいつは聞かなかった。『あなたのその気持ちは愛ではない』と、その一点張りだ。じゃあ俺のことは一旦置いておいて、お前自身はどうなのかと問った。俺のことを好きじゃないのか?好きでもないのに今まで付き合ってくれていたのか、と。
 『あなたは、わたしにとって大切なひと。だからわたしはあなたを尊重する』
 それがあいつの答えだった。だったら別れたくないという俺の気持ちを尊重しろ!と詰め寄ったが、それは場に流されて勘違いしているだけで、真実の気持ちではないと言い放ったよ。…決して、人の心が分かる質じゃないはずなのにな…。
 『わたしの為に、道を誤らないで欲しい。それが、わたしの願い』
 そう、な…。
 …俺は、聞き入れるしかなかった…。別れを…、恋人としての別れを拒み続けていれば、あいつは身を隠して二度と会えなくなる可能性があったからだ。俺は、友としてのあいつまで失いたくはなかったんだ」
 その時の二人のやりとりは、見てきたかのように鮮明に浮かんだ。
 相手の名前は決して言わなかったが、誰と特定されることを恐れていないのだろう。いやむしろ当然特定されると踏んでいて、だから聞くなと言ったのだ。
 清潔な二人の、幼い恋愛ごっこは容易に想像できた。
 明るい日の下、それぞれこざっぱりした、それでいて少し気合いの入った服を着、映画や遊園地に出かけたのだろう。ランチは小洒落たカフェ、もしかすると彼女の手作りの弁当を公園で広げたかもしれない。話題は、最近読んだ本や互いの近況、時々は高校時代の思い出も混ざる。口数は多い方でなくとも、沈黙が気詰まりにはならない。帰りは必ず彼女を家まで送り、たまに部屋に上がり込んでコーヒーを振る舞われたりもする。
 他愛なくも穏やかな、幸せそうなカップルだったのだろう。
「そりゃ俺は確かに、激しい情動は持っていなかったさ。あいつが世界の全てであいつなしでは生きて行けない、そんな狂おしい想いは抱いてはいなかった!
 けど、あいつのことをちゃんと好きだった!
 なあ!身を焦がす激情がなきゃ恋と言わないのか?激しく求める想いがなきゃ本物じゃないか?全ての恋がそんなものだなんて、テレビドラマの見すぎだ。
 確かに俺はあいつのことは妹みたいに放っておけない存在だと思っていた。そこから始まった。始まりはそこだけど俺の心の中ではちゃんと想いは成長して行っていた。
 庇護欲から始まった愛は偽者だと言うのか?」
 恋に正解はない。ただ、疑われたということはそれなりの理由があったに違いない。
「始まりはどうであれ、燃えるような渇望はなかったとは言え、俺はあいつを、俺なりに愛していた。一生守ってやりたいと思っていた。
 …まだ浪人の身でおこがましいと思われるかもしれないが、将来はこいつと結婚するんだ、と思っていたくらいには…」
 その台詞と、一瞬見せた色香にはっとする。
「あなたもしかして、彼女と寝たんですか?」
 露骨な質問に、彼は顔に朱を走らせ僕を睨む。
「…十代の恋人同士が順当に交際してた、ってんだから、それくらい分かるだろうが!」
「…」
 はっきりとは言わなかったが、それは間違いなく肯定だった。
 先ほど思い浮かべていた可愛らしいカップル像が音を発てて崩れる。
 キスですらとんでもない、手が触れ合っただけで赤くなり俯く。彼女がそういう感情を表に出すか、そもそもそんな感情があるかは分からなかったが、女性であれ人ならば必ず持つ性欲を備えているとは思えず、また、この人の方もストイックだったイメージがあることから、付き合うと言っても化石時代の男女交際のような、清い間柄だと思い込んでいた。
 だが違った。二人は、キスどころかセックスもしている。
 彼女の痴態を想像することは難しかったが、彼がどうやって彼女抱いたかは思い描くことが出来た。
 なんだ、こいつ、童貞じゃないのか。
 そう思うと腹の底から笑いがこみ上げてくる。
 女を知っている。情欲に濡れた一糸纏わぬ姿を他人に晒し、生臭い欲望を注いだことがあるのだ。
 想像した途端に愉快になった。許されるなら腹を抱えて転げまわって笑いたかった。
 この人は、童貞じゃあない。
 愉快だった。再会してからこっち、いや、あの日以来、一番愉快な気持ちになっていた。
「あいつが別れを切り出したのは、俺のことが嫌いになったからじゃない。むしろ好きだからこそ決断したんだ。俺を想って、別れることが俺にとって最良だと判断し、行動に移したんだ。
 俺自身はそんなこと望んじゃいないってのに、あいつは俺の気持ちを決め付けて譲らなかった。その方が俺の為だって言い張り続けた」
 勝手に、この人は未だに童貞だと思っていた。恋人が居ると言われてもだ。そういう俗物的欲求からは遠い人だと。だが違った。
 この人はもう清らかではない。汚れた身なのだ。
「どれだけ俺のことを思いやってくれてのことでも、俺は望んでいなかったしあいつに捨てられたのだという気持ちが強い。
 お前と一緒だよ、古泉。
 そりゃ、取り上げられたものの大きさは違うが、見当違いな気を使われて大切なものを、それを持つ当人から奪われたという点では同じだ。だから俺はお前の気持ちは分かる。
 一方で、お前にこれ以上無茶をさせたくなかったハルヒの気持ちも痛いほど分かる。お前が体中に血の滲んだ包帯を巻いて真っ白な顔で病院のベッドに横たわっているのを見て、俺も『もう良いだろう、ハルヒ、こいつを解放してやってくれ』と思った。…お前が自分の境遇…力にどれだけプライドを持っていたかを知らずに、ただ俺が、見ている方が辛いというエゴでな。
 だから…。………。…お前、随分楽しそうだな?」
「そうですか?」
「ああ。えらく浮かれた顔をしている。俺と再会して以来、初めて見る満面の笑みだ」
 人の不幸が楽しいのかよ、性格悪ぃなと吐き捨てるものだから、余計に僕は愉快になる。
「楽しいですよ、そりゃ。『他人の不幸は蜜の味』と言うじゃないですか。嫌いな相手の場合は特にね。率直な感想は『ざまぁ見ろ』ですね。
 僕が受けた傷に比して大したことない…なんて言いませんよ。心の傷なんてものは受けるものではなく感じるものです。たかが女に振られたくらいでそこまで傷付く気持ちは分かりませんけどね、あなたが深く傷付いているのは分かる。たまらなく愉快ですよ」
「…本っ当、性格悪ぃな」
 今更だ。
 昔から僕は、他人の不幸に愉悦を感じていた。僕の理性はそれを咎めていたし、悼む気持ちも確かに同在してはいたけれど、災害や事件、人の不幸を目にし耳にする度に、笑っていた。笑って、自分はまだマシだとほっとしていた。他人を貶めてから比べて、そんなやり方でしか自分を確認出来ない矮小な男なのだ、僕は。
 あらためて、彼を見る。
 たった一つ、情報が増えただけで、映る様相は変わっていた。
 ついさっきまでこの人は無知な偽善者だった。
 人の心の痛みも知らないくせに、稚拙な想像で知った気になった傲慢なイノセンス。
 だが今は翼を折られた堕天使だった。埋められぬ己の心の穴を、他人の穴を埋める代償行為で癒そうとしていたのだ。
 僕に構っていたのは、親切心やお節介、贖罪からではない。他人事と思えない傷を持つ僕を癒すことで自分の傷を癒した気になっていたのだ。
「何が可笑しい?」
「…いえ?あなたも人間だなぁと思って」
「どういう意味だ、そりゃ。俺は生まれた時からずっと人間だったぞ」
 どんな顔で、彼女を抱いたのだろう。
 セックスをしている時、欲にまみれた時、どんな清純そうな人間でも善良で純朴な人でもその顔は獣の醜さを帯びる。経験済みだ。
 普段は真面目な人間ほどそのギャップがあり、滑稽でみっともなく、興奮した。
 彼はさっきから僕を睨みつけているが全く迫力がない。
 彼に感じていた胸糞悪さはいつの間にか消えていた。
「どうやって誘ったんですか?」
「何がだ」
「あなたの初体験ですよ。一体どんな手管を使ってそこまで至ったんです?興味あるなぁ」
「…色ボケしたガキか、お前は。ポイントはそこじゃなく、俺も同じような経験をしたからお前の気持ちが分かるってことでな」
「そっちは僕にとってどうでも良いんですよ。たとえ全く同じ傷を負おうが痛みが分散されるわけではなし、僕の過去も戻ってこないしやり直せない。何のメリットがあります?」
「俺の初体験の話なぞ、更にメリットがないと思うがな」
「僕が愉快になれるから良いんですよ。
 高校時代、とっとと涼宮さんとくっついてしまえという方々からの要請を無視しあれだけの美女達に囲まれつつも誰ぞかに靡くことはなく、下世話な話を拒み続けた人が、どの面で彼女を口説いたのか、想像するだけで笑いがこみ上げてきますね」
「…」
 悪趣味、と口の中で呟きそっぽを向く。半ば怒ったように顔を赤らめ憮然としている。再会以来初めて見せた拒絶だった。
 湧き上がる気持ちは優越感。一体何に対して抱いたのか分からないその感情は、僕の脳を軽く麻痺させる。
 彼ににじり寄り、肩に触れるくらいに手を置く。彼は振り向き、訝る。
「ねえ、僕と寝てみませんか?」
「…は?」
「セックスしませんかと言っているんです。あなたが情事の最中、どんな顔をするのか、とても興味があります」
 言葉の意味を理解した彼は、真っ直ぐな目で僕を見上げた。僕の真意を見抜こうと、鋭い眼差しで射抜く。その目は僕の中に何を見つけたのか知れない。
 彼の眼差しからは何も読み取れなかったが、覗き込んだ彼の目に映っていた僕は、ことのほか楽しそうに、笑っていた。