3. キョン




 この家には急須がない。だのに何故だか茶葉はあった。実家の母親から送られてきたというそれは、封を切られることなく台所隅の段ボール箱に押し入れられていた。
 俺自身は茶に拘る方ではない。そりゃ勿論美味いに越したことはないし、安物のティーバッグとポットのお湯で淹れた茶よりも細心の心遣いとコラボで茶葉から淹れられた朝比奈さんのお茶の方が美味いと分かる程度の舌は持ち合わせている。それでも、てめぇ一人の喉を潤す分にはティーバッグの出がらしでも、ディスカウントショップのペットボトルでも一向に構いはしない。
 だが折角茶葉があるのに使わないのは勿体無いと思える程度の経済観念は、一人暮らしを始めて僅か二ヶ月でもついてしまった。
 手鍋に水を張り火にかける。ここいら辺は実家と違って水道水をそのまま飲み水として使えるので便利が良い。
 沸騰したところで目分量で茶葉をぶち込む。コツはパッケージの後ろに書かれている賞味期限を気にしないことだ。
 二分ほど蒸らして茶漉しをあてマグカップに注ぎいれる。少々乱暴なやり方だがそこそこ真っ当な味になる。
「古泉、茶ぁ入ったぞ」
 机一杯に広がるレポート用紙を避けマグカップを置くと、家主である男は首を幽かに動かし横目で俺を一瞥し、すぐにレポートに向き直った。
「玄米茶って気分じゃないですね」
 そっけなさすぎる声が返ってくる。
 ありがとうございます、いただきます。
 そう微笑みとともに柔らかな口調で礼を言っていた時代があったなど、想像もできないぶっきらぼうさだ。
「んじゃ、コーヒーでも淹れるか?茶は後で飲めば良いし」
「…」
 またちらりと一瞥。
 飲むか飲まないかは目の前に置かれてからその時の気分で決めるという目だ。
 むっと来ないと言えば嘘になるが、そういう時期なんだと思って諦める。
 反抗期の息子を持った母親ってのはこんな感じかね。身に覚えがあるので余計に古泉を責める気になれない。
 台所に戻って、こちらは取り易い食器棚に置いてあるインスタントコーヒーのビンを取り出した。


 あの日以来俺は、授業が終わると古泉の部屋に二日とあけずに入り浸るようになった。
 もっと自分を構えと言外に言われたあの日、己の所作に自信がなく揺れ動いていた俺の心はしっかり定まった。
 古泉は俺を必要としている。正確に言うなら俺という人間を必要としているのではない。ハルヒに「捨てられた」為に崩壊してしまったアイデンティティを再構築する為の助手を必要としているのだ。
 古泉とてハルヒが本気で自分を切り捨てたのだとは思っていない。むしろ思いやってのことだとは分かっている。ただ、どうしても割り切れない、気持ちの整理が付かないのだ。
 俺たちと過ごした三年も、楽しくて充実していた。古泉自身はちゃんとそう思っている。だが古泉の神であるところのハルヒがその一角を崩したことで、他ならぬハルヒがそれを否定したのではないかと疑ってしまっているのだ。
 ハルヒがそういうつもりなら、あの時代はなかったことにしよう、そう、古泉は俺たちとの日々を一旦は封印をした。そのまま忘れようとしたが、存在したものは無に帰すことはできない。無理矢理タンスの奥にしまいこんでも大きすぎる思いは収まりきらず、そのうち、空気を入れすぎた風船のように破裂してしまう。何の解決にもならない。  古泉は、過去を、思い出を肯定するのを助けてくれる人間が欲しいのだ。
 超能力者であった過去と、力から解放されて佇む今を繋ぐ為、その両方を知るアシスタントが。
 その条件を満たしていれば俺でなくとも構わなかったが、そんな条件を満たす人間は俺以外にはいない。つまり、古泉は俺を必要としている。
 必要とされているからと言って取り立てて何をするというわけではない。過去の肯定自体は古泉自身がしなければ意味がないことだ。ただ俺は古泉があの時代と向き合えるよう、肯定できるよう、傍にいて、お前が必要だった、楽しかった、今でも大切に思っている、と、ひたすら伝え続けるだけだ。どれだけ古泉に邪険にされようともな。
 本人も本当は分かっているのだ。気持ちの整理がつかないってだけで。
 こういう時は周囲は見守るしかないのだ。俺も身に覚えがある。中3の時、今思い返せばあれが若さゆえの情動というヤツなのだろうが、腹の底から涌いてくる形にならない力を持て余し、何かしなければ、何か出来るはずだと焦燥に駆られつつも具体的な何かを思いつけず、高校受験へと道を絞られていく閉塞感もあいまってひたすら息苦しく、いつもイライラしていた。己の内側の問題だったからか、外の世界である学校や塾ではその苛立ちはナリを潜め、家の中で爆発した。
 家庭内暴力なんて深刻なものには至らなかったが、母親に話しかけられても無視をしたり、不機嫌な返事しか出来なかったり、その気がなくとも一々反発せずには居られなかった。
 帰宅するとすぐに部屋に籠もり、勉強をタテに誰も寄せ付けようとはしなかった。母親が夜食を持ってくることすら煩わしがり、そのくせいつもきっちり平らげ感謝もしなかった。
 最低な態度だと分かっていても、改めることはできなかった。
 そんな俺を両親は何も言わずに見守った。妹はそういう気遣いが出来る年ではなかったが、「お兄ちゃんは今大事な時期だから」と言い聞かせられ、分からないなりに我慢してくれていた。
 自分で荒れておきながら、何で許してしまうんだ、甘やかしすぎだろうがと苛立った。親に向かって「うっせえ」なんて言うガキは横っ面を引っ叩いてやりゃ良いんだと呆れた。
 あの時は不思議だったが、今なら分かる。
 両親は、俺も俺自身ではどうしようもないことを分かっていたのだ。俺自身もその気持ちを持て余していること、これじゃいけないと思っているが、どうしようも出来ないこと、どれだけ邪険にしようがそれは捻くれた愛情表現で、ちゃんと家族のことを好きなこと、俺自身で折り合いをつけるまで黙って見守るしかないこと、そして時が経てばその時は必ず来るということ。
 自分たちにも身に覚えがあり、だから見守っていれていたのだ。
 俺が親の立場だったらそんな寛大な態度は取れないと思っていたが、案外平気なもんだな。
 ちゃんと相手が俺のことを必要としていて、俺もそいつのことを大事に思っているなら多少の無体は全く気にならない。甘えられているのと変わりはしない。

「ほら」
 コーヒーを入れ直して机に置くと、古泉はマグカップをちら見したが何も言わなかった。今度は及第点を貰えたようだ。
 レポートをする古泉を残し、夕飯の準備をする。といってもスーパーで買った惣菜や昨日1パックまとめて茹でた玉子を皿に移すだけだ。そこそこ自炊の腕は持っていたが、他人の部屋で台所権を握るのは行き過ぎの気がして踏み込まなかった。
 惣菜は、いつも昼休みに慌てて買っている。放課後に買いに行く暇はない。
 あの日の翌日、前日の約束通り夕飯を手に古泉のアパートにやってきた俺だったが、古泉に会うことは叶わなかった。既に家に帰っていた古泉は俺がどれだけチャイムを鳴らしても、戸を叩き呼んでも招き入れようとしなかった。室内には居る。居留守を使っているわけでもない。テレビを点け風呂を沸かしトイレに入り…、中にいる気配を隠そうともせず、俺が外に居ることを分かっていて戸を開けないのだ。意識的に無視しているのだ。
 小一時間も粘ったのだが天岩戸を開ける技を持たない俺は、その日は諦め翌日から授業が終わるとすっとんで来て古泉のアパートの前で家主を待ち、帰宅に便乗して部屋に上がりこむことにした。
 古泉は非常に迷惑そうな顔をしたが咎めなかった。戸を手で支えることもしない代わり、断りなく部屋に上がりこんでも何も言わない。咎める為の労力を割くことすら惜しい、というポーズだ。
 幸いにして古泉はあの頃と変わらず優等生で、連日6限までみっちり授業を入れているらしい。俺も、優等生だからではなく必須科目が多い関係で、6限まで埋まっているが、一年の講義棟は二年のそれより古泉のアパートに近く、ダッシュすれば間違いなく古泉より先にたどり着くことが出来た。
 尤も、俺が日参するようになってから古泉は、嫌がらせのように学校帰りに図書館や本屋やスーパーに寄り道をして帰宅時間を遅くしていた。少しでも俺を待ちぼうけさせたいらしいがそれでも一時間と遅れることがないのは古泉一樹という男の、優しさの成せる限界なのだろう。

 家に入れたからと言って勿論古泉は俺をもてなしてはくれない。相手もしない。ただ積極的に追い出そうとしないというだけだ。
 俺は一方的に古泉の世話を焼く。
 茶を入れ、食事を用意し、話しかける。
 どれだけ煩わしがられようと、つっけんどんに返されようが続ける。
 こいつは、自分の気が済むまで付きまとえと言ったのだから。
 我が儘?とんでもない。
 古泉はそうされるだけのことはしてきた。ハルヒの為に何も出来ない俺たち…俺に代わって自分を殺し尽くし続けてくれた。何かにつけいちゃもんをつけていたが、甘えていたのだ、俺は。俺たちは、長門に対するのとは別の方向で、古泉に頼り、負担を強いてきた。
 あの三年間の礼と、贖罪だと思えば大学の四年間、丸々下僕として仕えたところで過分ではない。
「偽善者」
 責めるでも、蔑むでもなく淡々と、教科書をめくりつつ、目に留まった単語を読み上げる程度の自然な口調で古泉は呟く。
 俺は肯定も反論もしない。
 ただ、その言葉は俺にでなく、顔に笑いを張り付かせて過ごした過去の自分に言っているようにも見えたのが、哀しかった。



■■■



 古泉にかまけていると他が疎かになるかと言えば案外そうでもない。古泉の部屋に居るのは夕食後しばらく、精々9時くらいまでだし、外せない用事があればそもそも古泉の部屋には行かない。まだ大学生活に馴染んでいない新入生だからして、交友範囲も狭く、そうそう予定も入らないがな。
 幸い、バイトもまだ入れていなかった。いずれするつもりでいたが、もう少し生活に馴染んでからと思っていたからだ。
 宿題はそこそこ出されていたが、今のところ講義の空き時間や家に帰ってからでどうにかなっている。古泉の部屋では一切勉強はしなかったが、限られた時間でやらないといけないという制限がある方が片付いた。勉学が疎かになるのを古泉の所為にだけはしたくないという意地も働いていた。
 それに、日中の大半を過ごす構内では今では俺もあえて古泉を避けている。

「キョン、今日は皆でC棟の学食行こうって話になったんだけど」
「…あー、すまん。スーパーで目当てのタイムセール品があるから、ついでにフードコートで食べるわ」
 C棟は二年生…、古泉のテリトリだ。学食はあまり行っていないようだがあえて危険は冒したくはなかった。避けているのではない。学校しか接点がなかった時はキャンバス内であいつを捕まえるしかなく、用がなくともC棟付近をうろついていたが、今となっては、俺というウザい身内の目がない安らげる場所と時間を妨害したくなかったのだ。
 クラスメイトはそれ以上は引き止めず、手を振り「じゃあまた今度な」と明るく去って行く。この距離感がありがたかった。
 ところで俺は何だって地元から遠く離れた大学に来てまであだ名で呼ばれているんだろうね。
 同校出身の同級生は居なかったが、同じ予備校を出たクラスメイトが居て、予備校には北高生がそこそこ居たのが敗因だったな。俺の本名はよほど俺に馴染まないのか、こんな奇妙なあだ名なのにあっという間に広まってしまった。
 ただ、今となってはこのあだ名は本名よりしっくり来る。ここ10年振り返って、俺の親しい人、大切な人たちは皆、俺をそう呼んでいたからかもしれない。
 口数が少なく、なかなか俺のことを呼ばなかったあいつも、たまに呼ぶときはこのあだ名だった。

「おっと、ヤバ」
 前方、はるか先に古泉を見つけ慌てて木の陰に隠れる。この一ヶ月で、俺はすっかり古泉ハンターになってしまった。
 数10m先を行く古泉は、珍しく一人ではなかった。同級生らしき男と一緒で、和やかに談笑していた。その顔は、俺たちが高校時代見続けたものと同じ笑顔だった。今のあの笑顔は素のもので、あの頃の古泉も作り物ではない素のあいつだったのか、それとも、今なお何かに対して己を作り続けているのか、判断はつかなかった。
 つかなかったが、今の古泉はとても穏やかに見えた。
 過去を、穿り返さない方が良かったのかもしれない。高校の三年間、いや、能力者であった五年余を黒歴史として封印し、その場所を見ないで別の人生を歩めるのならそれで。
 過去は、障害は、全て乗り越えなければならないものではない。その山が困難で望ましくないものであるなら迂回するのだって立派な策だ。
 だが、俺は再会してしまった。
 ああ、俺の我が儘だとも。俺は古泉に、俺たちとのことをなかったことにしてもらいたくはないのだ。俺たちの為に、肯定して乗り越えて欲しいのだ。
 幸か不幸か古泉の傷は今の俺には痛いほど分かる。
 とことん付き合ってやるから、古泉にも自分自身と向き合ってもらいたかった。



■■■



 古泉が、己の内を吐き出すように感情をぶつけてきたのは、あの日だけだった。
 元々感情を吐露するのに慣れていないのだろう。古泉の家族構成は聞いたことはないが、こいつは甘やかされて育った独りっ子じゃないかと踏んでいる。甘やかされて、という言い方は語弊があるか。手をかけられ大事に育てられたと言った方が良い。自分から何の意思表示をしなくとも周囲がこいつの希望を汲んで与えてしまう。おかげで、要求をきっぱり口にすることに不慣れで匂わせるだけで相手が動いてくれることを望み、叶わなければ憤るなり失望するなりするに留まり、はっきり要求すれば簡単に手に入るものでも諦める。
 理解者が周りに居なければ報われない、随分損な性格だ。
 高校時代はこいつがてめぇの我を口にしないのはハルヒの機嫌を損ねてはいけない立場からだと思っていたが、元々の性格も多分に有ったに違いない。
 ふー、と、忌々しげに息を吐き頭をかきむしる。
 あ、絡まれる、と思ったら案の定横目で俺を睨み舌打ちをした。
「あなた、バカですか?それとも真性のマゾヒスト?
 いつまでこんなことを続けている気です?甲斐甲斐しく奉仕していればいつか僕がほだされるとでも思っているんですか?」
「ほだされる必要はないさ。ただ俺はお前の気が済むまで…」
「気が済むまで付き合う?本気で言ってます?
 薄々気付いているでしょうけどね、僕はもうはっきり分かっています。
 涼宮さんは僕を捨てたわけじゃない。僕を疎んじたわけでも、役立たずだと切り捨てたわけでもない。僕のことを思って力を取り上げた。そのやり方は見当違いで正しくはありませんでしたが、コミュニケーション能力が貧困な彼女なりの善意でした。
 認めたくはないけれども分かっています。分かった上で、僕は彼女が許せない。そもそも僕は、彼女のようなやかましい女性は嫌いです。周りの意見を聞かず、自分勝手に突っ走り、人の気持ちや都合を全く考えない。なまじ行動力があるから質が悪い。
 彼女と過ごした三年、楽しいことは一つもなかったと言えば嘘になりますが、しんどい時の方が多かった。何事もなく彼女から離れたのであれば辛い記憶は風化し良き思い出となったのかもしれませんが、彼女は僕の身を千切って力づくで僕から剥がした。その痛みと絶望は彼女に対する不信と恨みに代わり、思い出は全て闇色に染まりました。彼女が関わっていたというだけで、思い出すのも胸糞悪い、黒歴史にね。
 感情的には、彼女のことは許せないし、あの時代のことは封印してしまいたい。ただ、僕にも分別はある。理性では、あなたの伝えたいようなことはとっくに分かっていて、時間が経てば許せなくとも忘れる、忘れたフリをすることくらい出来るのに、何故わざわざ暴こうとするのです。
 放っておいてくれ、もう。分かっているでしょう?あなたをサンドバッグよろしく痛めつけるのはそこそこ面白いけど、それを面白がる自分の性根に嫌気が差す。僕に付きまとっても無駄なんだ、って。あなたの尽力で僕の涼宮さんへの評価は変わることはない。いつまでこんな不毛な事で時間を空費する気です?」
「古泉、俺は…」
 お前の気が済むならどれだけ痛めつけられても構わない。醒めた目で睨まれようが口汚く罵られようが。ただ、俺たちとのことをなかったことにしてもらいたくないのだ。楽しかった思い出もあるなら、それを前面に持ってきて欲しい。都合の良いその部分だけを憶えておいて欲しい。それが出来るまで、俺は幾らでもお前のはけ口になってやる。
 そう言おうとして口を噤む。それは本心だが本心の全てではない。
 この間から、古泉に自分を重ねてか忘れようとしていた傷が表に出て疼く。
 俺だって古泉を利用しているのだ。どうしようもない心の傷を持て余し、俺より深い傷を負う古泉を見て、こいつよりマシだと安心し、古泉に尽くすことで自分が救われる錯覚に陥っているだけた。
 古泉を癒したいだなどと言ってはいるが、同病相哀れんでいるだけだ。
 古泉の隣に腰を降ろす。
「…俺もお前と同じだ。だからお前の気持ちが良く分かるんだ…」
 まだかさぶたすら出来ていない生傷、誰に話すことも出来ないと思っていた苦い過去を、古泉に話す気に、何故かなった。
 本当は誰かに聞いて貰いたかったのだろう。誰にも言えない、一種の醜聞を。
 俺が何を言い出す気か見当がつかず古泉は身構えている。
 俺は古泉の方を見ないようにして、なるべくそっと、その傷口を開いた。
「ついこの間まで、俺には付き合っていた娘がいた」