2. 再び、古泉




 一日の授業を終え、西門から大学を出る。スーパーに用がある時は裏門から出るが、直接帰るならば西門がアパートに一番近かった。
 普段通りのルートだったが何となく落ち着かない。
 忌々しいことだが、理由は分かっている。今日は一度もあいつに会わなかったからだ。ここ最近は日に一度は僕に付きまとっていたというのに。たまたま僕を探し当てられなかったということか、それとも…。
 今日はまだ会っていない為に、まだこれから会うかもしれないと煩い続けなければいけないのが気に入らない。
 それと、黒い憧憬。
 あいつとの対峙は不快な過去を思い出させられるという意味では面白くない。その一方で、気に入らないものを打ちのめす格好の機会でもあった。
 自分では分かっていることだが、僕は大概性格が悪い。
 意図することを過たず伝えられれば気持ちが良いのは人の当然として、僕が、いかな種類のものが伝わると一番気持ちが良いかというと、人を傷つける言葉だ。この言い方をすれば相手は傷付くに違いないと目算した言葉を投げつけ、思い通り相手が傷付くとすっとする。
 もちろん、誰彼にでも投げつけるわけではない。大切な人や、逆になんとも思っていない相手に無差別に切りかかったりはしない。好きな人を、そのつもりがなかったのに傷付ける趣味もない。
 傷付けたいと思った相手に刀を振り下ろし、思い通りの傷を負わせるのが楽しいのだ。
 ざまあみろ、と思う。
 傷付いて、ずたずたになれ。それで僕の溜飲は少し下がる。
 だから、あいつに会うのはかなりムカつくことではあったけれども、同じくらいにすっきりした。



 ああ、やっぱりな。
 アパートの前にその人影をみつけて、ムカムカと怒気がこみ上げてくる一方である種の予定調和に安心もする。
「ストーカーは犯罪ですよ」
 突き放した声をかけると、傷付いたように顔を歪めた。
「これで最後だ。人に聞かれたくないから部屋ン中に入れてくれ」
 …どういうつもりだろう。
 本心を探ろうと見つめるが、その顔からは苦渋しか覗えない。
「頼む」
 折れたのではない。僕も、たまには人目を気にせずやりあいたかっただけだ。
 顎をしゃくって促すと、泣きそうな顔で微笑んだ。

 階段を上がってすぐ、二階の角部屋が僕の部屋だ。
 僕の後ろから付いてきた彼は、遠慮がちに部屋に上がるとこれまた遠慮がちに辺りを見回した。
「もてなす気はありませんよ。とっとと用件を言って下さい」
「…確認、しておきたかったんだ」
「何をです?」
「お前、ハルヒや俺たちのことは嫌いなんだな?」
「憎いですね」
「高校の三年間は、楽しいことが少しもなかった忌まわしい過去なんだな?」
「思い出すだけで吐き気がする」
「なかったことにするのが、お前の望みか?」
「せめてものね。失った歳月は取り戻せませんが、過去を記憶から消すことはできる。蒸し返そうとする不穏要素がなければね」
 僕の人生に、お前こそが邪魔なのだと暗に断じる。疎くはない男は、正確に理解し頬をひくつかせた。
 肩を上下させ、一つ、大きな息を吐く。
「…わかった」
 分かった?一体なにが分かったというのだ、この男は。どうせ分かったつもりになっただけで、勘違いをしているだけだろうに。いつだって、誰だって、僕に対しては見当違いの思い込みしかしていない。僕が何を思っているのかなんて、分かりはしないのだ。
「今まで五月蝿くしてすまなかったな。もうお前とは会わないようにする。大学で見かけることはあるだろうが、その時は他人と思って無視するか、隠れてやり過ごす。お前も、俺なぞいないと思ってくれ。高校時代のことは忘れて、これからの未来を大事にしてくれ」
「………」
 想定していなかったことを言われ、一瞬、息が止まり思考が停止する。
 ゆっくり振り向くと、この上なく真剣な目線とぶつかった。
「今まで僕が迷惑だと言い続けていても全く聞く耳持たずたかってきたくせに、どういうつもりです?」
「その方がお前にとって良いと思ったからだ。昨日まで俺は、お前が邪険な態度を取るのはハルヒに捨てられたと勘違いして拗ねているからだと思っていた。お前はハルヒのことが好きだからこそ逆恨みしているんだってな。俺たちはお前との絆は切れていないと思い込んでいたから、ずっと連絡が取れていたと思っていたから、結果としてお前を孤独にしてしまっていた。その寂しさがお前を更に歪めてしまった。だから、傍にいて、『俺たちは古泉のことが好きだ、大事な仲間だ』と言い続けて心の壁を砕いてやらないといけないと思っていたんだ。言い続ければそのうち気持ちもほぐれるだろう、ってな。
 けど、違うんだろ?
 お前にとって俺たちと過ごした三年間は、ちっとも楽しくない、ただ辛いだけの日々で、俺たちのことを仲間だなんて全く思っていなくて、本当に抹殺したい過去だったんだろ?これから心安く人生を送るのに邪魔なんだよな?
 …それが分かったから、俺はもうお前に構うことを止める」
 言われた事をゆっくりと咀嚼する。
 僕を見限る、そう言ったのか、この男は。このお節介でお人よしで、あんな迷惑な女でも見捨てなかった諦めの悪い男が、この男まで僕を…、…僕だからこそ?
 お前もか、お前までもか?
 体のどこかで何かがきしむ音がするが、愚鈍なステゴザウルスのように、それは中々脳まで届かない。
「…なるほど。もうんな面倒な男には構っていられない…と。過去のことをいつまでもうじうじぐだぐだと引きずり遺恨を残して突っかかってくる男とは付き合えないということですね?」
「違う!古泉、そうじゃない!なんでそんな捻くれた言い方をするんだ!俺はただ、お前がこれから少しでも幸せになれれば良いと…」
「人格形成に大きな影響がある思春期の三年を消されてまともな未来があるわけないじゃないか!ここで僕を切るってことはそういうことだ!あいつも、機関も、お前も!みんな僕を捨てるんだ!」
「見捨てる気はない!俺もハルヒも!償えることならなんだってする!だからお前が構われたくないと言うなら…」
「じゃあなんでっ!
 …なんでたった数日邪険にされたからって引き下がる!所詮、自分がこれ以上傷付きたくないからだろうがっ!
 本当に詫びる気があるならどれだけ蔑まれて足蹴にされても、何度でも頭を下げれば良いだろうに!鬱積した怒りの捌け口になろうくらい、なんで考えない!
 僕が寂しかったと思っているなら空いている時間だけじゃなく、何はさておき傍にいるくらいの気概をみせたらどうだ!中途半端なんだよ!なにもかも!」
 ああ、僕は何を言っているんだ。メチャクチャだ、バラバラだ。
 これではまるで、僕が…。
 目の前の男が驚愕に目を見開く。そこに、先ほどまで消えていた光が宿る。
 聡明な男なのだ、元々。
 徐々に力を持つ目の輝きに、下手を打ったと認めないわけにはいかない。
 舌打ちをして顔を背ける。
「…帰れ…っ!」
 怒鳴りつけても動く気配がない。ただ静かに立っている。
 その静かさが、揺らぎ暴れる僕をかき乱す。
 僕の仮初の平穏を脅かす。
「この部屋から出ていけ!」
「…分かった。今日は取り合えず帰る」
「もう二度と来るなっ」
「明日、また来る」
「…!来るな、と言っている」
「授業が終わったら、なるべく早く来るから」
「僕にこれ以上構うな!」
「晩飯、買ってくるから、待っていてくれ」

 ぱたん、と音を立てて閉ざされたのは、やつらと共にいた過去ではなく、僕の退路だったのかもしれない。