2. キョン




 親元を離れ一人異郷で暮らすようになってから約一ヶ月、敷地にしろ授業内容にしろ何もかも高校とは違う大学生活に加え、自炊だの洗濯だの、進学が決まってからは母親に叩き込まれはしたがまだ慣れない家事とでそこそこ疲れる日々を送っていたのだが、今日はその比ではない、充実した疲労ではない、でっかい吸い取り紙で体中の気力が拭き取られてしまったそんな脱力感に見舞われ、アパートに着いた途端床にへたり込んでしまった。
 昨夜と今日の昼間に浴びせられた古泉の言葉が延々と巡る。再会して二日、時間にして10分も会っていないというのに高校の三年間に匹敵する濃度があった。
 昨日はあからさまな敵意に当てられて何も言い返せなかった俺だったが、冷静に考えると古泉は思い違いをしているのだと思い至った。
 力がなくなったことをハルヒに見捨てられたからだと勘違いしたまま仲間外れにされたと拗ねているんだ、ってな。
 あの事故の後、ハルヒの号令の下SOS団内部に「古泉くん支援隊」なるものが結成され、入院している間も、退院して松葉杖をつき通学する間も、杖が取れてからも、俺たちはしつこいくらい古泉をサポートした。「親戚が世話をしてくれるから」と古泉が固辞しなければ家に上がりこんで家事も分担させられたに違いない。
 古泉はとても大切にされていた。だがそんな表面的なことでは気に入らなかったのだろう。
 力がなくなったということはハルヒが認めた超能力者という属性が消されたこととなり、超能力者でなくなれば機関の中での扱いはさししたる価値のない協力者レベルまで引き下げられた(森さんがそう言っていた)。機関での地位が下がれば相対的に、未来人や情報統合思念体といった対外勢力から見た重要度も下がり、今まで何か仕掛ける時は古泉に断りを入れていた連中も古泉の頭の上で話をするようになった。
 確かにその面では古泉は蚊帳の外にはじき出された。 己のアイデンティティが否定され古泉がショックを受けていたのは知っている。本人は変わらず振舞っているつもりだっただろうが、ふとした隙に見せる憔悴した暗い顔は身の内に生まれた空洞と必死に闘っている様相を見せていた。
 今まで在った力がなくなった絶望は浅くはないだろう。持たぬ者である俺には想像しか出来んが、想像だけなら出来る。ただ、その喪失感は時が癒してくれると思ってもいた。その時になれば、俺が力になれるとも。何たって俺は、純然たる一般人だからな。そりゃ、役回りから多少の不思議体験に巻き込まれたりはしたが、俺自身に何らかの特異性があったわけではない。たまたまハルヒに目を付けられ、仲間に認定されたからここに居るに過ぎない。古泉も俺と同じ立場になったのだと、不謹慎だが少し嬉しかった。
 落ち着いたら腹を割って話そう、「お前のこと、ちょっと羨ましかったんだぜ」と告白して、その時俺たちは本当の友人になれるんじゃないかとも思っていた。超能力なんてそんな大層なもんじゃない、SOS団の一員って方が余程珍しくて重要だ、ってな。
 分かってもらえると思っていた。古泉がハルヒのことを好きならば。

 僕の五年間を返して。

 重い言葉だった。
 そう吐き捨てた時の目が、またきつかった。
 あからさまな憎悪、それすら隠れてしまう、悔恨。治療の術のない疫病に冒され苦しむ我が子を、病気の蔓延を防ぐ為とも周囲に強いられ自ら手にかけたその直後に特効薬が見つかったような、取り返しのつかない哀しみを宿していた。
 世の中には取り返しの付かないことは山ほどある。誤って押されたボタン、発見が遅れた病。そんなものに比べれば、古泉は健康だし環境も健全だ。「失った」と言っても物理的制約は発展途上国の子供どころか持病を抱えた病人より少ない。
 だがだからと言ってお前よりしんどい人間は他にも居るのだから甘えたことを言うななどとは言えない。
 同じ環境に身を置き、よほど平穏に生きてきた俺が言えるわけがない。
 それに、見方を変えれば古泉の背負ったものは他に類を見ないという意味で、何より重い。
 飢餓で死ぬ者、地雷で体を吹き飛ばされた者、治療の術のないウィルスに倒れる者、それぞれ不運で悲劇ではあるが、前例のないものはまずない。
 古泉は、人間が最も苦手とする孤独という痛みと常に共に在ったのだ。
 やるせなさがこみ上げてきて床にずるずると突っ伏す。
 古泉は自分を偽っているとは思っていた。ハルヒの気に入る古泉像を演じているだけで、本当はもっと違った人間だろうと。
 だがそれは、同級生にまで敬語を使うとか、いつも微笑みをたやさないとか、そういうレベルでの嘘で、ハルヒのことは大切に思っているのは変わらないと思っていた。
 あれも嘘だったというのか?三年間、俺たちに嫌々付き合っていたというのか?

 考えれば考えるほど、何もかも面倒になり今日はこのまま着替えもせず眠ってやろうかと畳と友情を深めていたところ、尻ポケットの携帯が振動し、誰ぞかからの着信を告げた。
 心身ともに疲れきっており口を開くのも億劫だったが、ほぼ習性で携帯を取り出し開ける。
「…」
 ディスプレイが告げる相手を見て俺はふいに溢れそうになった涙を堪え、苦笑した。
 こいつはいつだって、最悪で最高のタイミングってヤツを知っているのだ。
『ちょっとキョン!遅いわよ!コールが聞こえる前にとは言わないけど、最低1コールが終わらないうちに出るのが礼儀ってもんでしょ!』
 久しぶりだな、どうした?
 などと挨拶をする隙も与えられず馴染みのある大音量が鼓膜を殴打する。
「無茶言うな!常に手に持っているもんじゃないだろうが!」
 さも迷惑そうに返すがただのポーズだ。ハルヒと話す時はこれがデフォルトになっているが、本気で迷惑なわけではない。むしろ今というタイミングでは、ハルヒの変わらない天真爛漫っぷりは救いだった。
「で、一体何の用だ?わざわざ電話をかけてくるなんて何かあったのか?」
『用なんかないわよ』
「用がないのに電話したのかよ!」
『用がないからこそ電話にしたんじゃない。用もないのにメールをすること事態間抜けで時間の無駄だわ』
 いや、そもそも用がないのに連絡を取ろうとすること自体が時間の無駄だと思うがな。俺自身人生において無駄な時間は必要、むしろ無駄な時間の合間に人生やっているようなもんだから構わないが、お前は昔から用がなければ電話なぞしてこなかったし、してきても用件以外は前置きもなにもすっとばしていただろうが。その用が用とは思えない頓狂なものであったことばあるがな。
『強いて言えば陣中見舞いかしらね』
「陣中?」
『大学始まってから二週間でしょ。そろそろ勝手が分かって緊張も解れている頃でしょ。最初のうちは見えなかった不都合が明らかになったり、想像と違って落ち込んで大学を辞めたくなったりね』
 そりゃお前のことだろう。
 確かに、生活のリズムが掴めて肩の力が抜けてきた半面、緊張で気付かなかった疲れが表面化してきてはいるが。
『でしょ?特にキョンは知り合いが全然いないところに行ったんだから、頼れる仲間も愚痴を言い合える友達も居なくて溜め込んでんじゃないかと思ってね』
「…」
 一瞬、古泉が此処に居ると暴露してやろうかと思った。
 俺たちに嘘を吐き、学校にも機関にも告げずこっそりと去年のうちに受験をし、今は俺の先輩だぞ、ってな。
 ハルヒの馬鹿げた力を思えばこの偶然には何らかの他意が働き意図せぬ必然となり、よって進捗の為の更なる段階としてこいつを巻き込むことが正しいのではないかと。
 …思ったが思い直した。
 ハルヒの力は識閾下のものも拾うがつまりそれは主観によるということである。古泉が異郷で元気にしていると信じているハルヒが仕組めることではない。だからこの件はむしろハルヒの耳には入れてはいけないことだ。ハルヒの力を介入させてはいけない。
「親切にありがとよ。しかしお前にしちゃ気が利いた気遣いだな。…経験談か?」
『あたしにしちゃ、ってどういうことよ!…まあ確かに思い当たることはあるけどね。
 あ、キョンのことを心配してじゃないから!あたしが話したかったのよ!以前のあんたじゃ経験値が足りなくて会話にならなかったからね。
 どう?大学生活は。高校の時と比べて。世界が広がったでしょう?』
「ああ…」
 意外だった。
 ハルヒはわざわざ入った大学を数ヶ月で辞め、単身フランスに渡った。今はあっちの大学で何やら色々学んでいるらしい。
 ハルヒが日本から出て行ったのは大学生活が退屈で早々に見切りをつけて別の何か新しいものを求めて目を海外に向けたのだと思っていた。
 だから俺の進路についても下らないと一刀両断に切って捨てるものだと思っていたのだが。
『大学ってね、色んなものが隠れている場所なの。ま、そんなのあらゆる世界がそうなんだけどね。特に大学は人類の基礎たる知恵の宝庫なわけ。過去現在問わず、学者や番人たちが、意匠をこらし仕込んだり散りばめたり置き去りにされ手たりするわけよ。で、そういうのは受身じゃ絶対見つからない、ううん、あるってことすら分からないの。自分から首を突っ込んで行かない限りめぐり合えないのよ!
 あんたはトロいから、まだ言われた通りの講義に出ているだけでしょうけどね、そんなんじゃ高校の時と全然変わらない、何も面白くないわよ!空き時間なんて作ってんじゃないわよ!自由選択科目あるでしょ。そういうの詰め込めだけ詰め込んで、教員室に乗り込んで…、とにかく自分から首突っ込んで行きなさいよ。
 あ、キョン、あんた何か部活に入った?』
「いや、まだだ。まだそこまで手が回らない」
『学校の認可を受けないと活動できないなんてしみったれたこと言われないから、マニアックなクラブ結構あるわよ。知らなかった世界を見せてくれるから、何か入ると良いわ!あ、でも玉石混合…てか、石の方が多いから、つまんないと思ったらすぐに辞めなさいよね!時間の無駄だから!
 …あたしね、キョン、本当の意味で探索って分かっていなかったわ。不思議なものがあると思ってそれを探していた。宇宙人とか未来人とか超能力者とか、存在すると決めていて、その“存在することを前提とした不思議”を探していたのよ。でも違った。
 そもそも不思議が存在するのか、何が不思議なのか、その未知を、誰かが作った概念からでなく、一から探さなきゃいけなかったのよ。
 大学でそれを学んで、探してたらあちこちで見つかって、したらいてもたってもいられなくなってフランスに来ちゃった!』
 驚いた。
 ハルヒが、たった数ヶ月で辞めた大学を評価していたとは思ってもいなかった。
 日本の大学ってのは入試は難しいが、入ってしまえば勉強しようがしまいが楽に卒業まで行き着ける。講義はサボり放題だし、居眠りが横行しても咎められない。よって、低きに流れる水の如く、大半の学生はだらけて行く。レポートはいかに楽して仕上げるかに心血注がれ、ゲームを楽しむように、代弁やカンニング、教師を欺くことに熱心になる。コンパだの、クラブだの、バイトだのに熱中し、社会に出る前の最後のレジャーランドだと認識されており、俺自身も入学してみてそういう印象を受けた。
 だから何事にもアクティブなハルヒなら、この手のぬるま湯生活に愛想をつかして当然だと思っていたのだ。
 端々に聞くフランスでの生活は充実しているようだから、あっちは性に合っているのだろう、日本に見切りをつけたのだろうと思っていたのだが、ハルヒはまず日本での大学生活で世界に開く扉をみつけ、そこから羽ばたいていったのだ。
『そりゃ、こっちの方が学生も先生も意欲的で容赦がなくて変り種が多いけどね、日本にも逸材は一杯いたわよ!
 退屈ってのはね、存在するもんじゃなく感じるもんよ!あんたが大学生活をつまらないと思っているなら、それはあんたの行動が足りないからよ!』
「そーかい」
『そうよ!
 ま、あたしも人の事は言えないけどね。高校の時は周りに散らばっている拾い物に気付かずやみくもに走り回っていたもんね。あの頃のあたしって、世間知らずで物知らずで。今思い出すともどかしいやら腹立たしいやらで顔から火が出る思いだわ!』
 聞き捨てならんな。
「なあ、ハルヒ」
『なによ』
「お前にとって北高時代って、黒歴史か?忘れたい過去か?」
 お前もまた、忌んでいるのか。狭い箱庭から野に放たれた今、取るに足らないものだったと言うのか。
 古泉というカンナで削られた心はちょっとした刺激でピリピリ痛んだが、言の葉の端にささくれた棘を、ハルヒは鼻息で吹き飛ばした。
『んなわけないでしょ!
 バカばっかやってたし、回り道して赤面物の言動も多かったけど、どれも大事な思い出だわ。そりゃあ今の私ならもっと上手くやれると思うことは一杯あるけど、そう思えるあたしになったのは、あの頃のあたし、あたしたちがあったからよ。過去を否定するなんてそんな、今の自分を否定するのと同義な愚かしいこと、このあたしがするわけがないじゃない!
 それにもし、あの時代の悪行の数々が今後の人生にマイナスに働いて後悔することになったとして、あの時あたしは本当に楽しかった、その事実は消えないもの。
 …キョン、あんたまさかあの頃の自分を後悔しているとか言うつもり?』
 そんなわけがあるか。
「いや、俺は楽しかったよ」
 しんどい思いもしたし、色々文句も言ったが思い返せば楽しかったことしか憶えていない。何の特殊能力も責任もない俺が、いつも騒ぎの中心に居ることができた。この上なく美味しいポジションだったと思うよ。
 俺の生涯において最も輝ける三年だったさ。
『ちょっと!たかが十九年生きたくらいで生涯で一番なんて言わないでよ!あんたこの先思い出だけで生きるつもり?何もしない気?あたしがひっぱってあげないと何もできないの?違うでしょ!
 三年間あたしに引っ付いて何を見てきたのよ!世界を面白くするためにどうすれば良いか。少しはやり方学んだでしょ!これからはあんたが、あんた自身の為に行動しなさいよね!言ったでしょ、自分から探さなきゃ、何もみつからないのよ!』
 尤も、あたしより上手く見つけられる人間なんてそう居ないけどね!
 からからと笑う、カリブ海の日差しを思わせる晴天の声が耳にまっすぐ突き刺さった。ちょっと考えれば突っ込みどころ満載の言い草だったが、大局の前では些細なことだったさ。
 そそれからハルヒは、日本とはシステムの違うフランスの大学のこと、課外活動中に知り合ったアーティストのこと、バカンスに予定している旅行のことなどまくし立て、俺の一人暮らし及び大学生活のことを聞き出し、日付が変わる頃に「今から授業だから!」と電話を切った。
 先ほどまで寒々と淀んでいた俺の部屋はいつの間には初夏の花畑並みに色彩に溢れ、電話を切ったあともその余韻は残り、萎縮していた俺の心に活力を与えていた。
「…決めた」
 ハルヒのお陰で一つ決心がついた。
 確かに古泉は何を考えているのか良く分からない人間だった。だがそれは仮面を被っていたからで、ふとした拍子で仮面が外れたり、隙間から見えたりする顔は、割に分かりやすいものだった。自分の置かれた環境に疲れつつも、SOS団の活動はそこそこ楽しんでいた。それなりに充実した高校生活を送っていたはずだ。
 古泉は、ハルヒのしたことを誤解していないのかもしれない。ハルヒは古泉に無用の烙印を押したのではなく、思いやって解放したのだと、ちゃんと理解しているのかもしれない。
 だが、理解していても感情が蟠り、あるいはハルヒの気持ちを疑っていて、三年間の思い出に澱を纏わせているのだろう。
 だから、俺が修復してやる。
 一年前は話し合う隙もなかった。古泉は心を閉ざしていたし、俺たちも古泉を腫れ物を触るように扱った。正面からあいつの傷を見ようとしなかったのだ。
『もう、いい。ありがとう。あなたは、あなたの為に生きて』
 ふいに、手放してしまった過去の傷が疼いた。
 もう逃げたくはない。古泉まで失いたくはない。あいつの思いのたけを受け止めてやる。
 一瞬、古泉と会ったことを森さんに伝えた方が良いだろうかと思い立ち、止めた。
『キョンくんはどうも思っているのか知りませんが、機関は、そう強固な組織ではないのですよ。規模も、設備も、携わる任務から考えればあまりに矮小です。人員は常に不足していますし、質の面でも穴だらけです。正直なところ、涼宮さんと閉鎖空間を追いかけるのに精一杯で、離脱した構成員を監視する余力などないのです』
 今にして思えば、あれはささやかな布石だったのだろう。まだ古泉が機関の下に在ると思って、「離脱した構成員」が何者かを知らない俺に、やがてその正体を知った時の為に。
 機関は古泉の行方をトレースしてはいないし、正確に掴んでいない恐れすらある。
 知ったところで機関は動けない。森さんたちは精々心配事を増やすのが関の山だ。古泉のことを知らせるのは解決してからで構わないだろう。
 今後の方針を頭の中で整理し、気合を入れる為頬をぴしゃりと叩いた。



■■■



 次の日から俺は、極力構内で古泉を探し、見つけたら近付いて行った。
 とりたてて何をするわけでない。ただ昔のように「よぉ」と挨拶をし、世間話をする。今日は良い天気だな、お前GWはどこか行くのか?政経のレポートが出たんだが、良い資料を知らないか?この辺に古本屋はないか?またパンか?栄養が偏るぞ、カレーを作りすぎて余らせているんだが要らないか?等々。
 それに対する古泉の態度は、ろくなもんじゃなかった。
 直前までクラスメイト達に花が綻ぶような穏やかな微笑みを向けていても、俺を見止めた途端、ツンドラ地帯の荒れ野と化す。雪女ってのはきっとこんなだろうと思わせる冷え冷えした目で斜めから見、棘だらけの短い言葉を返す。そうですか、知りません、何の用です、忘れました、放っておいて下さい。等々。
 その態度はあまりに冷たく、俺を疎ましく思っていることは空気の読めない子供にでも分かるくらいで、いたたまれないことこの上なかったが、幸いにして俺はまだ授業以外で親しく付き合っている友人は居なかったし、古泉も独りでいることが多かった。誰ぞに見られて奇異に思われる心配はあまりなかった。
 俺としても公衆の面前で手酷く突っぱねられ続けると心が折れるので、なるべく人気のない、あるいは逆に人が多すぎて声を荒げれば目立って仕方がないという場所を選んでいた。
 それが何になるかという具体的なビジョンはなかった。ただ、とにかく古泉の傍にいないといけないと思ったのだ。今度はこの手を離しちゃいけない、ってな。

「一体何を考えているんです。寄るなと言ったでしょう。僕に付きまとわないでくれ」
 言葉を吐き捨てる。誤飲した腐敗物を吐き出すように。
 そう憎々しい顔をしてくれるな。俺のツラの皮はそんなに厚くないんだ。
「…ハルヒから写メが来た。フランスでの生活も落ち着いてきたらしい。今度、凱旋門で待ち合わせてSOS団同窓会をしましょう、遅れて来たヤツがお茶代奢りよ、ってな」
 携帯を差し出すと、無視されるかと思いきや、古泉はちらりと覗き込んでくる。だがほんの一瞬だ。すぐに目を逸らすとハッと息を吐き出す。
「相変わらず能天気な人だ。いつまでも愛されていると信じて疑わない。自分が一声かければ世界のどこがからでも皆が集まると思っている。彼女自身の魅力でなく畏怖される力によるものだとも知らずにね」
「…っ、古泉!言いすぎだ!俺たちは…」
「あの力がなければ集いましたか?彼女の希望により集められたという意味だけでなく、世界を変えるほどの特殊な力がない一クラスメイトにすぎなければ、あんな独善的ではた迷惑な人と友人付き合いなんかしていなかったでしょうに。彼女の無茶苦茶な要求に言いなりになったのも、馬鹿げた呼び出しに応じたのも、人を人とも思わぬ仕打ちに耐えたのも彼女に魅力があったからじゃない。彼女の力を恐れた、もしくは利用価値があったからだ。
 違いますか?」
「…」
 違うとは言わない。いくら非凡を憧憬した俺でも、朝比奈さんや長門、古泉が居なければ、たとえ最初は手を引かれて付き合っていても、さっさと見切りをつけていただろう。そしてその仲間たちは、ハルヒのあの力がなければ集うことはなかったはずだ。
 だかそれはあくまできっかけだ。あいつのことを良く知った今では、たとえその力がなくなっても、俺たちは友人のままだ。
「どうだか。そりゃあなたは他のしがらみはありませんからね、そうでしょうが、未来人やTFEI端末は彼女の力がなくなった後も、彼女の言いなりになりますかね」
 言いなりにはならんさ。そんなことは言っていない。ただ、変わらず友人だと言っているのだ。
 確かに、ハルヒの力がなくなれば、朝比奈さんは未来へ帰るだろう。長門は自分の意思で生きることを保証されている(とこの間聞いた)。広い好奇心を持つヤツだから常にハルヒを気にかけていることはないだろう。だが二人とも、俺と同じく、最優先事項でなくとも一人の友人としてハルヒを思いやっている。誘われて都合がつけば一緒に遊ぶだろうし、助けを求められれば馳せ参じる。時空を超えては難しいかもしれんが、心のアルバムの大切な位置に貼り込み懐かしく思い出せる存在のはずだ。
「僕にとってはただの黒歴史です」
「!」
 毒を塗った刃のような禍しい言葉にとっさに反応が出来ず、言い返そうと口を開いたが終鈴に遮られた。
 それがそのまま会談終了の合図とばかりに無言で踵を返した古泉は、瞬く間に教室からあふれ出た学生の中に埋もれて行く。
 取り付く島の全くない態度に、俺は流石に頭を抱える。
 古泉も俺と同じように、心の底ではあの時代を大事に思っているのだという確信は揺らいでいた。
 なすすべなく見送り、その姿が今にも消えようかという時、古泉が誰かに呼び止められたように立ち止まった。はたして、講義棟から出てきた同級生らしき男が走りよって古泉と二言三言言葉を交わしている。古泉の表情は死角になっているが、相手の顔を見る限り、雰囲気は和やかなようだ。話はすぐに終わり、古泉は今度こそ、人込みの中に消えた。
 俺の足は石化したように重く、そこから一歩も動けなかったが、古泉と話していた男が俺のすぐ脇を通りかかったのでつい口が出た。
「あ、あのっ、先輩、ちょっと良いですか?」
「ん?俺?」
 呼び止められたその人は、思い当たるフシもないだろうに、人懐こい笑顔を浮かべて「何?」と聞いてくる。勝手の分からない新入生が助けを求めているとでも思ったのかもしれない。
「えっと、あの、先輩は古泉をご存知なんですか?古泉一樹」
「え?…ああ、友人だけど?何、きみもしかして古泉の同窓?」
「え、はい。高校の…部活で一緒でした。俺は浪人しているので、同級生でした」
「へえ?じゃあ俺ともタメか。…でも古泉は同じ高校から入ってくるヤツがいるって知らなかったみたいだけど?」
「あ、はい。…俺が家の都合で引っ越したりしてバタバタしていた関係で、この一年連絡を取っていなかったもので…」
 本当のことはあえてぼかすがあっさりと信じてもらえたようだった。
「それで俺、この一年の古泉のことを知らないんですが、あいつ、どんな感じです?」
「…どんな、って?」
「いえ、あいつ、高3の時交通事故やって、ちょっとナーバスになっていた時期があったもんですから…。一時期扱いにくくなっていて、大学に入ってどんな具合かなと思って。えっと、孤立してたりとかしてないかなと心配で」
 ハルヒに鍛えられた所為で口から出任せが上手いと言われていた俺だったが、この一年ですっかり錆付いてしまったらしい。ろくな台詞が出てこない。だが相手はそれを気に留める風はない。何故だかやけに嬉しそうだ。
「先輩思いだなぁ。いや、高校は同級だったから友人思いか。大丈夫、心配するな!確かに古泉は人と群れるのが嫌いな個人主義だけど、ちゃんと友人は居るし、人あたりも人付き合いも良いぜ。この間の新歓も幹事を買って出たしさ。
 確かに時々怖い顔をする時はあるけど、誰だってそういうとこ、あるだろ?きみの言うわだかまりがそれかもしれないけど、過去のことだろ?今がどうこうってんじゃなくて、思い出し怒り?みたいなもんだと思うよ。古泉は十分学生生活を楽しんでいると俺は踏んでいるね」
「…そ、う…、ですか…」
 脳みそが揺すぶられた感じがし、地震でもないのに足元がふらつく。それは、俺の気持ちの揺らぎを表していた。



「…疲れた…」
 玄関で靴を脱ぐのももどかしく、ナップサックを放り出し床に身を投げ出した。
 あの後、どういう流れでだか古泉の友人であるところの先輩と一緒にメシを食いに行くことになった。久嶋と名乗ったその人は、やたらと気さくで気風が良かった。「友達の友達はみな友達ってヤツさ。大学じゃそうやって人脈を広げて行くんだぜ。学年は上だけど、同じ年なんだからタメ口で頼むよ」そう言って肩を叩いた。俺は本来はそう人見知りする性格ではなく、予備校でもすぐに友人は出来た方だったが、妙な緊張感があって体が強張り中々打ち解けられなかった。
 丁寧語とタメ口がごちゃまぜになった奇妙な口調になっていたが、久嶋はそれを新入生独特の初々しさと見て、寛容に受け止めてくれたようだ。
「きみ、県外者だろ?勝手が分からなくて心細いだろうけど、俺で良ければ力になるから、頼ってくれよ。…ああ、そういう世話は古泉が焼いてくれるかな。はは」
 勿論古泉はそんな世話なぞ焼かないだろう。折角なので、近所の食い物屋事情とか、後期向けの効率の良い授業の取り方なんぞを聞いたりした。
 話題の3分の2はそういった学生生活のことで、残りの3分の1が、話のきっかけでもあり共通の友人でもある古泉のことだ。
 久嶋なりに気を利かせているらしく、どの話題にも古泉のことを絡めてきた。
「ここの天津飯、古泉も気に入っているんだぜ」
「去年の初雪の時はあいつ、雪に慣れていないもんだから革靴で学校来てさ、そこの掲示板の前ですっ転んだんだぜ」
 等々。
 久嶋の語る「古泉」は確かに俺の知る古泉なのだが、俺の持つ年表とはズレがある。
 なまっちょろい外見に似合わず、肉だの揚げ物だの、普通に男らしい食い物を好む古泉。
 スタイリストのくせに、肝心なところで抜けていてドジを踏む古泉。
 冷静で物腰は柔らかだが時々、押さえ込んだ欝を発露させる古泉。
 取り繕った姿しか見せなかった格好付けマンが、三年かけて少しずつ晒していった素顔だった。
 まだ一年の付き合いしかない久嶋がそれを知っているという事実、今の久嶋が知っているそれは、今の俺には過去のものだという状況。
 今の俺が目の当たりにした古泉にはその面影はない。
 過去を忌み、世を拗ね、かつての仲間を憎しみに染まった目で睨み、容赦のない刃を振り下ろす男。
 こっちに来て、そんな古泉しか見ていなかった俺は、つまり今あいつはそういう状態なのだと思っていた。ハルヒに対する誤解、わだかまりがあいつの本質を歪めて古泉の人生を台無しにしているのだと。
 …だが古泉は、俺…“過去”と関わっていない時はちゃんと大学生活を謳歌している。
 俺は間違っていたのか?
 お前にとっては、本当に、あの三年が辛いだけの憎むべき日々だったのか?
 思い出すのも忌々しい、忘れ去りたいだけの過去だったのか?
 わざわざ乗り越えなくとも、目を逸らして置き去りにして捨ておけばやがて朽ちていく生ゴミのようなものだったと言うのか?
「…」
 腹の奥から得体の知れぬ闇がこみ上げてくる。その黒い塊は、持てし感情を全てを食い物にし、成長し、やがて俺の全身を覆いあらゆる気力を奪っていった。
 あふれ出る涙を留める術もなく、俺はただ膝を抱えて蹲り、泣いた。