1. キョン




 目が合った途端、反射的に名前を呼んだが、俺の理性は誤りと告げていた。何故なら俺の持つ情報によれば、その男はこんな場所にいるはずのない人間だったからだ。
 本命、他人の空似、次点で空間断層が発生したまたま遠方の本人と繋がってしまったというSFだが馴染みのある超常現象。それでも、ヤツそのものだという選択肢は浮かんで来なかった。
 良く見れば俺が見知った男とは風貌が違う。別人に違いないと思った瞬間、そいつは、一億の借金を残し失踪したロクデナシの父親に十年ぶりに再会した思春期の息子のように全身に憎悪を漲らせた。
 ああ、こいつやっぱり古泉なんだ。
 哀しいことに、俺はそれで確信した。
 今までただの一度も見たことのない表情だったが、高校の卒業式の日に俺たちに決別を告げた、あの氷の眼差しが一年かけて育つとこうなるだろうという、そんな顔をしていた。

 俺を認識した古泉は、一つ睨んで踵を返し、人いきれでざわめく入り口と反対の方向に早足で去って行く。
「古泉!」
 思わず、後を追う。
 古泉は器用に人の合間を縫い、テラス席へと出るガラス戸を開け外に飛び出した。
 古泉は決して走らなかったし、戸口に居た上級生に会釈する余裕すら見せたが、心は音速で俺から離れたがっているのは見て取れた。
「古泉っ!」
 それでも俺はバカの一つ覚えのようにその名を呼び追いかける。
 何故追う?アホぅが、放っておけ。古泉が全身で拒絶しているのが分からないのか?
 理性のどこかが警鐘を鳴らすが足は勝手に動く。
 テラス席からそのまま構内道路へ抜け、俺がまだ足を踏み入れたことがないキャンパスの奥へ。俺は殆ど走っているのに慣れない敷地に足を取られて中々追いつけない。舗装されていない獣道を、古泉には多分馴染み深い場所なのだろう、ずんずんと人気のない方へ進んで行く。
「こいず…っ!」
「…何でこんなところに居る…っ!」
 あと一歩のところで追いつけるという距離で古泉は立ち止まり、くるりと向き直った。
 地平に沈む間際の太陽が、その端麗な顔に深い陰影を落とす。
 理不尽な怒りに、俺の頭にも血が上った。
「『何で』だ!?それは俺の台詞だろうが!俺は一浪した挙句、真っ当に試験を受けてここに入学したんだ!誰に憚ることはない!お前こそなんだ!何故此処にいる!?海外に留学したんじゃなかったのかよ!しかもさっき歓迎する側に居たってことは二年なんだろ!?何で二年?去年はお前、一校も受験しなかったって!大学に入らなかったはずの人間が何で上級生面して此処に居るんだ!?」



■■■



 二度とごめんです。

 能面のような血の通わない笑顔を貼り付けて、古泉は言った。微笑みに温度があるならバナナで釘が打てるだろうほど冷たい笑顔だった。
 二度とごめんです。あの人のお守りも、あなたたちとの馴れ合いも。訳の分からないものたちに振り回される日々はもう真っ平だ。金輪際僕には構わないで下さい。
 歌うような軟らかな口調で、女どもに騒がれた甘い声はそのまま、ただはっきり拒絶した。
 卒業式の直後だ。
 SOS団の卒業コンパをしようというハルヒの提案を、あのイエスマンがきっぱりと断った。病院で検査があるのでと言われれば、その半年前の惨状を目の当たりにしたハルヒもごり押しは出来なかった。
 あくまでにこやかに告げた古泉だったが、ハルヒに対してだけはそれまで持っていた遠慮や敬意は微塵も感じられず「じゃあ古泉くん、もし時間があったらいらっしゃい!このお店が会場だから!」と手渡された紙を受け取ってもただ笑むだけで去っていったもんだから、俺は思わず追いかけてしまった。
 あいつが密かに傷付いていることは知っていた。
 力がなくなって、ハルヒに捨てられたと思っているってことも。
 それでも、超能力とか関係なしに、ハルヒは古泉のことを大切な仲間だと思っていることには変わりない。それもまた知っているはずだと思っていた。俺としてはただの確認のつもりだったのだが、つまり確認しなきゃならんほどの不安は感じていたわけだ。
 俺は古泉を呼び止めて言った。「道は別になったけど、俺たちは変わらずSOS団の仲間だ。これからもよろしくな」ってな。
 臭い台詞だし俺のガラじゃなかった。それほど必死だったわけだが古泉はあらゆる侵入を反射する純度の高い水晶の如き硬質の微笑で絶縁状を叩きつけてくれたのだ。
 俺は、古泉が去った後も長いこと足がすくんで立ち尽くしていた。
 

 古泉から、ハルヒにより押し付けられたという超能力がなくなったのは高三の晩夏のことだった。
 力を与えたのがハルヒなら、取り上げたのもハルヒだ。
 その時古泉は閉鎖空間で酷い怪我を負った。ぱっと見分かるのレベルではない。二ヶ月の入院生活を余儀なくされ、完治まで五ヶ月を要する、最初の三日間はICUに入っていたという、正真正銘、生死を争う重体だったのだ。
 今にして思えば機関は無茶な理由を付けてでも古泉の怪我を隠すべきだったのだろう。例えば、海外に住む親が危篤で取るもの取りあえず出発したのだ、とでも。晒すことで結果、大切な仲間を一人失ってしまったのだから。
 だが当時は古泉は数ヶ月程度では学校生活に完全に復帰出来ず、復帰した後も後遺症が懸念されたので、長く秘匿することは困難と判断し、また、ハルヒが知ることにより神の力が働き古泉の治癒が早まるのではないかという希望的観測もあって、ハルヒに、俺たちに怪我を知らせた。勿論ハルヒには原因はぼかされ、「交通事故で」という説明だった。
「一部の機関員の中にはこの事故で涼宮ハルヒに自制を促せるのではないかと推測するものもいました」
 あまりの激情から逆に感情を押し殺さなければならなかった森さんが、あらゆる表情を殺した仮面を付けて、後に教えてくれた。
「大切な仲間を危険な目に合わせてしまった。…古泉は涼宮さんが面識のある唯一の能力者です。涼宮ハルヒは心優しい女性であることはここ数年の観察で分かっております。ですから、能力者がストレス除去マシーンでなく、一人の人、友人と認めた相手であれば、怪我をさせたことを悔い、閉鎖空間を発生させなくなるまではなくとも、在り様を変えてくれるのではないかという意見です。…ですが涼宮さんは、我々が思うよりずっと極端な方だったようです」
 ほんの一瞬、顔から慟哭を覗かせた気がした。
 森さんは…森さんだけは、人手が減った以上に、古泉のその後を予測し、取り返しの付かない過ちに気付いていたのかもしれない。
 ハルヒが、古泉の怪我の元凶を深層意識下で正しく当て、取り除いてやろうとしたのは機関の思惑通りだったが、ハルヒは古泉の治癒を早めるような自然の摂理を歪めることはせず、もっと根本的な解決を実行した。
 ハルヒは、閉鎖空間の在り方は変えず、ただ古泉の能力を消した。古泉の能力だけを消した。能力者のうちで、古泉だけがその力を取り上げられたのだ。
 辛そうな古泉くんを見ていたくない、そんな古泉くんは可哀想だ、古泉くんを楽にしてあげたい。
 多分そう思ったのだろう。ハルヒを良く知る俺たちも、比類なきアナリストである情報統合思念体も見解は一致した。
 ただ当然ながらハルヒは真意を告げることはなかったので別の可能性を勘ぐるものもいた。例えば、無能だから見捨てられたのだ、と想像する当事者とか。
 古泉は怪我の所為で受験勉強で遅れを取り、焦って不本意な大学に入るよりはと、最初から受験をせず一浪して次年に譲ることにしたのだが、卒業のすぐ後、両親の誘いに応じて親の住む海外に引越しそのまま気候が肌に合ったのでこちらの大学に入ることにしたのだ、と、俺は…俺たちは聞いていた。

「あれは嘘だったのか?」
 睨み付けると古泉は負けじとむっとする。
「知りませんよ。大学を受けなかったというのは嘘ですけどね、海外に引っ越しただのそこの大学に入っただの、言ったことはない。そもそもあれ以来僕は、あなたたちだけでない、機関とも一切連絡を取っていない」
「…え?だってお前、時々ハルヒにはメールを返していたじゃないか。電波状態が不安定な国だから、通話は向かないからメールで、って…。俺はお前の動向はそれで知っていたんだぜ?」
 以前と変わらないケー番から、1,2ヶ月に一度メールが届く。ハルヒはそれをそのまま俺たちに転送していた。ここ一年はずっとそんな感じで、あのメールがあったから、俺はまだ古泉と繋がっているものだと、卒業式でのあの態度は一時的に拗ねていただけなんだと思っていたのに。
 古泉はかっと目を見開き盛大に舌打ちをした。「森さんか…」その呟きはこの上なく忌々しげで、俺は氷で出来た刃で心臓をなぞられる錯覚に陥る。
「あの携帯は卒業式の日に捨てましたよ。支給品でしたから機関に返したわけですけでね。メモリはそのままにしておきましたから、森さんあたりが僕に成りすましてメールをしたんでしょうね。あくまで、僕のあずかり知らぬところで!」
「…古泉!だとしても森さんは俺たちとお前の両方に気を使ってのことだったんだろう!そんな糾弾するような口調は止めろ!」
「ああ、いえ、構いませんよ。“SOS団の古泉一樹”というアイテムの所有権は機関にありますからね。むしろ僕を巻き込まず、断りなく使ってくれた方が良い」
「古泉っ!」
 あの日のように、表面だけの取り繕いもない、剥き出しの刃物を闇雲に振りかざすようにその言葉は棘を撒き散らす。俺を傷付けることを厭わないその刃は諸刃に見える。振り下ろす度に己の身も削っているようで二重に痛い。
「それで、あなたは何故この大学に?誰かの差し金ですか?それとも、また神が気まぐれを起こしましたか?一度手に入れたおもちゃを手放すものかと僕を?」
「…。…さっきも言ったが俺はお前の知っている通り、お前とは違っていくつか大学を受験して全てに落ちて一浪した。浪人したからには金のかかる私立は認められないと言われてターゲットを国立に絞り、その中で俺の学力に合った大学を選んだんだ。将来展望なんかないからな、入りたい大学でなく、入れる大学を選んだだけだ!俺自身が決めたから、機関は関係ない。全くの偶然だ!」
「偶然、ねぇ。このレベルの大学なら他にもあるでしょうに。何でわざわざこんな田舎を選んだんだか」
 信じてないな。
 高校時代一度も見たことのなかった嘲りの表情だったが違和感はなかった。こいつが味わった体験を思えば、如才なく笑っていられたあの頃の方が異常だったんだ。
「ハルヒの意思も関係ない。古泉、ハルヒはもう俺たちを縛ることはない。あいつも大人になったんだ」
「…どういうことです?」
 ハルヒは一旦は家から通える地元の国立大学にストレートで合格し入学したのだが、三ヶ月も経たないうちに「やりたいことをみつけたわ!」と退学しフランスに渡った。誰にも相談せず、親にも殆ど事後承諾の形で、「どこにいてもSOS団は不滅だからね!」と言い残し単身で去って行った。“古泉”にも報告済みで、「涼宮さんらしいです。頑張って下さい」と返事があった。
「ハルヒは俺たち誰をも巻き込まず、一人で旅立った。しょっちゅうメールで近況を伝えてはくるが、もう自分の都合で俺たちを呼びつけることはしない。俺たちとは別の道を歩き始めた。ハルヒはもう、俺たちを束縛したり意のままにしようとはしないんだ」
「…はっ!」
 シャッ。
 また刃が振り下ろされる。
「勝手な人だな、相変わらず!三年間散々振り回しておいて用がなくなったら捨てるんだ」
「古泉、そうじゃない、ハルヒは…」
「違いますか?彼女に振り回されなければあなたも、滑り止めにすら引っかからない、留年も危ぶまれるほど成績は落ちなかったはずだ。
 彼女が強いたから志望校を広げることも出来ず、自宅から通学圏内に絞らなければならなかったのも原因の一つだったでしょうが。朝比奈さんに至っては未来が用意した進路を曲げさせてまで引き止めていたと言うのに!
 だのに彼女は、皆が自分の望みどおり周囲に留まったと言うのに、無理矢理留めさせたというのに、自分の興味が外に向いた途端見捨てたんだ。あなたたちは自由になったんじゃない、放り出されたんだ。これを勝手と呼ばずに何と言います?」
「…」
「で、あなたは、涼宮ハルヒというくびきが外れ、行動範囲を拡大したというわけですね。…分かっていたら釘を刺しておいたものを」
「…古泉…」
「まあ、仕方ないですね。偶然というのは信じましょう。彼女に見捨てられたのなら彼女の差し金とは考えられませんし、捨てられたあなたを機関が重視し利用するとも思えない」
 そう捨てた捨てたと連呼してくれるな。今まで気にしたことがなかったのに、何だか惨めになるじゃないか。
 古泉はおざなりに喉の奥で笑った後、顔から表情を消した。一年前見せた笑顔はどんな無表情よりも冷たいと思っていたが、これはその上を行く。あれが氷ならこれは闇、無だ。何ものをも反射しない、光すら虚空へと吸い込むブラックホールだ。
「今後、キャンパスで僕を見かけても声をかけないで下さい。大学は広いですし、学年は違いますからそうそう会わないとは思いますけどね。できれば、見かけたら物陰に潜んで僕が通り過ぎるまでやり過ごして欲しいもんですね。僕はそうしますから」
 一方的にそう告げて、古泉は挨拶もせずに踵を返し、慣れた足取りで闇の中に消えて行った。
 俺は追うことも去ることも出来ず、そこに立ち尽くす。
 春とはいえまだ夜は肌寒いこの土地の風が、俺の体を芯まで冷やした。