1. 古泉




 北国と呼ばれる土地でも四月も半ばを過ぎれば十分暖かい。
 市街地から離れた山の麓に位置する構内には日陰であっても残雪はなく、そろそろ薄手のコートすら手放せそうな気候だった。
 降雪はあっても積もることは稀、五pも積雪があれば交通機関がストップする温暖な地方から、冬は冷たき白魔により大地が閉ざされる土地に移り住んで一年。この一年は生活が一新したということもあり、目にするもの耳にすること全てが未知の体験で戸惑いっぱなしだったが、ようやく、ああ去年の今頃は…と過去を重ねることが出来るようになった。
 学食に溢れるまだ希望に満ちた若い覇気にあてられ気分が悪くなったのは去年と同じ。
 ただ一年前は僕自身も入学したての新参者で右も左も分からなかったので、息苦しさを感じつつも他に選択肢がなく迷い込んだ感覚の学食の片隅で息を潜めていたのだが、今年は、広いキャンパス内で騒がしい新入生をやり過ごせる憩いのスポットをしっかり見つけていた。
 学食と同じくざわつく売店で惣菜パンとジンジャーエール取り上げさっさと外に出る。ゴールデンウィークを過ぎれば一年生も大学生活に慣れ、そしてだれ、キャンパスは落ち着きを取り戻すが、この時期はまだ静寂の代名詞、図書館ですら例外ではなく、講義の空き時間や昼食休みを僕は、人気がないわけではないが大学を熟知した教員や上級生達だけが足を踏み入れるスポット、北端に位置する池の傍のベンチで過ごすことにしていた。
 背もたれのない、木製の長椅子に池側に向いて座る。水面に映るフナの影を見るともなしに見、パンの包みを開く。
 一陣の風が頬を撫で、揺すられた桜の木から満開の花弁が二つ三つ舞った。
 ああ、綺麗だな。
 …と、表層的に僕は思う。
 散る花を見て美しいと思う。そよ風が心地良いと思う。そう思うことが自然だから思う。
 心の深層には揺らがない冷たい塊があるというのに。

「あれ、古泉、こんなところで昼食?」
 背後から声がかかる。同じマンションに住む同級生だった。こっちと違ってサークル仲間と思われる何人かと一緒だった。
「そだ、あれの領収書って、今出る?」
「新歓の酒代のですよね?今日放課後取りに行くつもりなんですが。…急ぎますか?」
「いや、ギリで良いよ。もしあるならついでだからもらっておこうと思っただけ」
「じゃあ明日、ドイツ語の時間にお渡しするで良いですか?」
「うん、全然ヘーキ」
「ねえ、古泉君って、二年よね?私たちとタメで」
 それまで横で会話を聞いていた女性が話に割り込んできた。必須授業で見かけたことがある。同じクラスではないが同級生なのだろう。
「そうですけど?」
「じゃあ何で敬語?こいつに何か弱味でも握られてるの?それとも、凄い良いトコの子とか?」
「ああ」
 思わず苦笑する。
 なるほど、傍からみれば奇妙なことだろう。
「高校の時、年上の人が多いサービス関係のバイトを長くしていたもので、誰にでも敬語を使うよう躾けられてしまったんですよ。それでつい敬語に。僕自身そう上品な人間じゃないんですけどね」
「ふうん?」
 途端に、思い出して胸糞が悪くなる。
『世界の平定の為です』
 初心な子供だった僕はその言葉を信じた。
 一歩間違えれば世界は崩壊する。僕の努力と我慢が世界を救うのだと、与えられた使命の重圧に押し潰されそうになりながらも選ばれた者としての誇りを胸に、懸命に立ち向かった。ほんの子供だったのだ。
『涼宮ハルヒの望む古泉一樹像を   
 そんなもの、機関の勝手読みだったじゃないか。あの女は僕に本当の意味で何も望んではいなかったじゃないか。
「古泉?」
 急に顔をこわばらせた僕を訝る声がする。
 おっと、いけないいけない。
 あの三年で培った、身に付けたくもなかった微笑みの仮面を貼り付ける。
「お酒ですけどね、一本だけ市販されていない大吟醸を混ぜてもらえたんです。幹事特権でこっそり戴くつもりですから、声かけてくださいよ」
 人当たりの良い気さくな口調で同級生たちをやり過ごし、再び一人になったが、先ほどまでの、生温い穏やかさは戻って来ない。
 食欲を亡くし、食べかけのパンをビニールに乱暴に放り込み内に溜まった澱を吐き出そうと息をする。目に飛び込む木々の青さが輝かしく、それが美しければ美しいほど僕の心はどす黒く禍しい闇に包まれていく。
 こんな世界、滅びてしまえば良いのに。
 かつては神とも崇めた少女の顔がフラッシュバックする。
 お前なんか、いなければ良かったのに。
 消えろ、僕の目の前から、いや、この世から。過去に遡り未来永劫。
 滅びろ、死ね、死ね、死ね。
 吐き捨てるように何度も唱える。何度も、何度でも。繰り返し、繰り返し。

 僕は、世を呪い乍ら生きている。





 人生の中でほんの一瞬だけ、僕は世界を救うヒーローだったことがある。
 僕らの闘いは、世間が知ることのない孤独な、しかも根源を絶つことの出来ない、ゆえにいつまで続くのかが知れない停滞したもので、闘わなくとも気付くものはいないくせに、闘わなければ必ず世界は滅びるという、不条理なものだった。
 世界の崩壊を実力行使で止められる戦士は僕を含めて世界で十数人きりで、世界人口60億超人のうちの数人ともなればどうしても選民意識が芽生えないわけにはいかなかった。
 戦士たる能力者の選定は完全にランダムで他意はない、というのが方々の統一見解だったが、それでも僕は選ばれしものだと思ったし、彼女自身に誰よりも近付いた能力者として、他のものたちよりも秀でたかけがえの無い存在になったのだと勘違いしていた。
 終わりの見えない戦いに疲弊こそしたが、僕が世界を守っているのだというプライドは、強いられた苦労や不満を補ってあまりあるものだと信じていたのだ。とんだ道化だ。

 だが彼女は、力を与えたと同じ唐突さで、僕からその力を取り上げた。
 何の前触れも打診もなく、いきなり僕の力は消えた。…消された。
 それまでの五年半人生を犠牲にして身を粉にして尽力した僕に、何の慰労もなく、僅かばかりの慈悲もなく…。
 力を亡くした僕は、丁度進学の時とも重なったのを幸いに、それまでの交友や人脈を全て絶ち北高からは誰一人として進学していない、何の特徴もない、ただその名から知れるように国立であることだけが利点の北国の大学に進んだ。
 この大学は在学者の六割が地元出身という、他に大学選択の余地がない田舎に有りがちの良く言えば地域密着型、悪く言えばわざわざ県外から進学する価値の見出せない大学で、内向的ではあるが純朴な校風を持っていた。僕のような余所者を積極的に引き込もうとはしない代わりに排除もしない。つまり、こちらが望めば深く交わることが出来、望まなければ距離を置いて暮らすことが出来る、ということだった。
 大学というのは良く言えば自由、悪く言えば希薄なコミュニティで、取る授業ごとに面子は変わるし座席も決まっていない。高校のようにクラスメイトと連れ立って行動することは殆どなく、授業前後に言葉を交わすこともない。親しい友人同士でまとまってしまうので、一人二人誰とも口を聞かず講義が終わればとっとと帰る同級生が居ても気にされず、周囲から浮くということもない。
 入学当時、今よりずっと世を拗ねていた僕は、他人とお友達ごっこをする気は全くなかったので、孤立するに違いないと踏んでいた。だが、積極的に行事に参加しようとせず、サークルにも入らず、元々の友人もいない、そもそも社会に入り込んでいない接点の無い人間を異端視するほどの影響力は大学にはなかった。まだ社会に慣れない幼い子供のキャパシティに対して場が広大すぎるのだろう。ある因子を異端視するには異端ではない規格内のものが高密度で集っている必要があるのだ。大学の構成員はその大部分は規格内のものだったが、広い敷地に分散しすぎて大衆を作るに至っていなかったのだ。
 まだ学年があがってゼミにでも参加すれば話は別だろうが、どんなミニマムな講義でも三十人から受講する一年の間は角が生えているわけでも、目が青いわけでもない、いきなり奇声を上げるとかものを壊すとかの異常行動も取らない、ただ独りでいることを好むという程度の薄い個性では都会のゴミ川に投げ捨てられたタバコの吸殻と同程度に、全く目立ちはしなかった。
 季節が一巡りして、周囲が僕に付けた認識タグは「古泉一樹」「○期生Bクラス」「県外者」。少し事情を知ったものでも単独行動が好きという属性と、出身高校の名前がプラスされるくらいだ。
 高校の時付けられた「秀才」「スポーツ万能」と言ったタグは、大学では貼り付けられなかった。大学の試験は順位が張り出されることはなく、頭の中身を知らしめる機会がない上、僕自身、新入生代表の挨拶を任されるほどには突出した頭脳は持っていなかったし、同じく、運動能力を誇示する行事もなかったからだ。
 高校の時はこの容姿が一定の注目を集め異性から少なからぬアプローチがあった。大学に入ってもその手の煩わし事があるだろうと多少覚悟をしていたのだが、田舎の特性からか、見た目がそのままもてることには繋がらなかった。
 東京出身の同級生はこれを「冒険を嫌う田舎者の保守性」と断じた。外見が綺麗だと内面を疑う、裏に何かあると思って避けて通る無知ゆえの臆病さだと。
 だが僕は逆だと思う。都会のように物が溢れ、人が溢れ、ぱっと見の刺激だけで人を惑わせようとする目くらましが溢れていないだけ、他人の評価に踊らされず自分の目で物事を選出することが出来るのだ。刹那に飛び掛る必要がない環境が、本質を見抜く余裕を与えているのだろう、と。
 僕を選ぶ者が居ない…全くいないわけではなかったが、そういう人はあくまで「一時の快楽のための相手」としてという、相応しい扱いで僕を選ぶことに、この土地の人の慧眼を見たと思った。
 とにかくこの土地は、大学は、僕を構いすぎない。過大評価もしない。
 そのことに救われた。
 僕がこの大学を選んだのはとにかく、それまでの環境全てを捨てたかったからだ。
 誰も僕のことを知らない、僕が知る人の一人もいない、今後も誰とも会うことのないだろう僻地という、その一点でのみ、ここを選んだ。だったらいっそ海外にでも行けば良かったのにと思われるかもしれないが、そこまで情熱的な反抗心は無かったのだ。「忘れたい」のなら文化や社会の土台を変えることも有効だろうが、僕はただ「捨てたかった」だけなのだから。
 そんなわけで、後ろ向きな理由で選んだ大学だったが、ここの校風は以外にも僕を癒した。
 誰も僕を注目しない。疎んじる方向にも、崇める方向にも特別視をしない。
 触れられれば噛み付く手負いの獣だった僕だが、荒み放題に放置され、僕がどうあれ世界は回るのだということを示されやがて肩の力が抜けていった。
 必要以上に構われないことを知ったので、必要最低限の、同級生との接触を持てるようになり、それなりのお友達ごっこをする相手も出来た。
 過去の傷はまだ完治せず、時々間欠泉のように噴出し、僕を苛むがやがてあの五年を忘れ、人生をやり直せる時が来るのではないかと思い始めていた。
 そうだ、忘れてしまえ。あの時代のことなど。二度と思い出したくはない。忌まわしい過去、人。
 消えてしまえ、僕の頭から。



■■■



 大学の、高校と似て非なるところはいくつもあるが、そのうちの一つがクラス分けだ。
 僕たちは入学の際、将来の専攻はほぼ無視して、四十人程度を一単位にしたクラスに振り分けられるが、高校の時のように、それが一つのコミュニティを形成するという影響力のあるものではない。語学などの、必須ではあるが少人数単位での授業を振り分ける際の便宜として分けられているだけだ。
 健康診断の時などに、「Aクラスは9時から」といったように使われるが、普段は自分が何クラスだったかを意識することすらない。
 クラス分けが一番威力を発揮するのは新歓コンパの時だろう。
 この大学では新一年生の歓迎会をクラス単位の縦割りで行う。新しい環境に飛び込んで右も左も分からない一年生に、大学に馴染んでもらおうと、人脈を作る切っ掛けになればと大学側の全面バックアップの下、上級生、特に新二年生が中心となって大学で一番大きい学食を借り切って歓迎会を催すのだ。
 一年はほぼ強制参加だったから、世を拗ねていた僕は去年は最初の一杯と自己紹介だけ嫌々付き合って後は抜け出した。
 二年になれば幹事も…なんてとんでもない、会費だけ払って後は逃げようと思っていたのだが、この純朴な校風の中では尖るより沿う方が面倒がないと悟ったので事前集会に顔を出し、「飲み物の手配を担当してくれる人いないかな?」と見渡されて自然に「僕でよければ」と挙手していた。協調や奉仕精神と言ったものではない。ただ、一年以上閉ざしていて、そろそろ開こうかと思った社会の扉から踏み出すリハビリのつもりくらいでいたのだ。
 手配自体は毎年恒例のことなので、決まった酒屋に決まった金額を提示し決まった本数を発注するという、前年を踏襲するだけの簡単なものだった。別段何の手腕も必要がない、だがそのことが、普通の学生生活の一端を担えた気がして、少し楽しく感じた自分が意外だった。

「料理OK。お酒OK。紙皿と紙コップ、テーブルセットは全部出た?よーし!そろそろ新一年生、入れて!」
 幹事長のクラスメイトがてきぱきと仕切る。
 「こっち皿足りないよー!」「栓抜きない!?」
 指示の下走り回る他の二年生たちのテンションも高い。僕の気持ちも何となく高揚する。
「古泉、追加のビールは?」
「奥の業務用冷蔵庫に入れてもらっていますよ。温いと不味いでしょ?」
 会の進行もしなければならない幹事長は、僕に話を振っておきながらどこか上の空だ。段取りの書かれた紙を何度も見直している。
「古泉ー、四年が出し物するからスペース空けろ、って。テーブル動かすから手伝って!」
 呼ばれて奥に移動する。
「ったく、先言えっての。セッティングした後に動かせってどんだけ手間がかかると」
 口では文句を言うが本気で嫌がってはいない。多少の無茶振りは達成感と自信の踏み台になる。上級生からの命令も、言い換えれば頼られている証だ。何となく嬉しいものだ。…僕にも経験があるから良く分かる。
 テーブルを一緒に持ち上げている同級生のテンションも高い。あまり物事に動じないタイプなのに珍しい。
「張り切ってます?」
「俺?あは、分かる?今日のゲストの中に高校の後輩が居るんだ」
 なるほど。
「先輩の見得ってやつ?」
「それもないとは言わないけど…。…ほら、俺、県外者だろ?ここは地元出身者が多いから、入ったばかりの頃は随分心細かったんだ。そんな時、一人だけいた同じ高校出身の先輩が色々親身になってくれて、凄く嬉しかったし救われたんだ。その先輩とは高校の時は全然面識がなかったんだけど、同じ高校だ、ってことで、わざわざ訪ねてきてくれて。
 だから俺も、後輩が入ってきたら目一杯歓待して力になってやろうと思っていたんだ」
 …こいつが先輩じゃなくて良かった。
 同級生どころか、ここ四年、北高出身者がいない大学を選んで良かったとほっとする。放っておいてくれとこんな片田舎まで来たのに、ちょっかい出されてはたまったものではない。
 そう思ったが勿論顔には出さない。
「…羨ましいな。僕の所からは誰もこんな大学に来ないから」
 心にもない合いの手を入れる。
「あれ?今年一人入ったじゃん?」
「…え?」
「北高だろ?新歓の名簿に出身が北高のヤツ、居たぜ?あー、古泉ンとこだー、って思ったから、間違いないと思うけど?」
「………」
 一瞬のうちに嘔吐感がわき上がる。長閑な散歩をしている時に頭上から汚水を浴びさせられた不快感を憶えた。
 何かの間違いであって欲しいと思ったが、そういう憶え方をしたのなら間違いないと思って良いだろう。こんな大学、選ぶ人間は居るまいとすっかり油断していた。
 北高で、一年下なら間違いなく僕を知っている。そういう高校生活を、僕は送らされてきた。
 冗談ではない、ようやく気持ちも落ち着いて来たと言うのにあの時代の亡霊に捕まってたまるか。
 一次会くらいは付き合う気でいた歓迎会から早々に退散を決め込み、出口に向かおうとした。が、一瞬遅く、わっという歓声が上がり受け付けを終えホールで待機していた新一年生が一斉に会場になだれ込んで来た。
 舌打ちを一つし、取り合えず第一陣をやり過ごそうと脇に寄る。
 北高出身の新入生が誰であれ、僕を見つけてもいきなり駆け寄ってくることはあるまい。高校時代から下級生にとっては近寄りがたい存在であったはずだ。興味があってもおいそれと寄ってこれるものではない。
 それに、大学に入ってから、僕は髪型も変えた。雰囲気も違うはずだ。簡単には見つからないはずだ。
 だのに。
 僕はただ、忘れたいだけなのだ。忘れて、静かに生きたいのだ。
 …だというのに、そんなささやかな願いすら、神は打ち砕く。
「…古泉…?」
 心持ち緊張した面差しで入場して来たその“後輩”は、僕を認めて、沖縄でイエティに遭遇したとでもいう顔をした。
 僕の顔は、今どうなっているのだろうか。
 怒っているのか、笑っているのか。
 自分では見当も付かない。
 ただ、腸は煮えくり返っていた。
 こんな引き合わせをした神に対して。あるいは、意図した第三者に。
 折角捨てたのに。
 捨てることで彼女の大罪を赦そうとしていたのに。呪いの言葉を胸の中で唱え続けるだけにしていたのに。

 一年ぶりに再会した、一度は仲間だと思ったことのあった同級生の顔を見、僕は一言も発することが出来なかった。