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1:秘密の花園 その野原には色とりどりの花が咲き乱れていた。 世界のあらゆる形と色がそこに在り、この世のどこを探してもない花もあったが、どれも陽とそよ風の下、楽しそうにたなびいていた。 右を見ても左を見ても花、花、花。 地平の果て、その先まで延々と続く花畑。 僕は溢れそうになる涙を必死でこらえ、その美しい光景を、一秒でも長く心に焼き付けようと、目を見開いていた。 *** 『古泉?今どこだ?あと五分で始まるぞ!』 電話越しでもありありと不機嫌が伝わってくる。眉間の皺はいつもより一本多いに違いない。 「申し訳ございません」 『すまんで済むなら警察は要らん!間に合うんだろうな?』 「ちょっと無理そうです」 『お前なぁ…!また寝坊か?予定のある日の前日は早めに寝ろとあれほど!』 「ああ、そういうわけではなく…。…久々に“バイト”が入りまして」 『………』 「この埋め合わせは後日必ずいたします」 『…良いから早く行け。怒鳴って悪かったな。映画は一人で見るから気にするな』 「いえ、僕に遅刻の前科があるのが原因ですから。それと映画は僕も見たかったんですから一人で見ないでくださいよ?後日あらためて付き合ってください」 『お前、あんま興味なかったんじゃね?』 「あなたが見所を話してくださったでしょう?楽しみにしていたんですよ。とにかく、チケット代は持ちますから、今日は別の用事を入れてください。では」 『気を付けてな』 いたわりが込められた言葉を耳に閉じ込め、彼の名の残るディスプレイを暫し眺め、彼の残像を断ち切るように携帯を畳んだ。 *** 虚構の空が砕け散った後、習慣的に時計を見ると、発生から一時間十分が経過していた。 帰りの車は断りゆるゆると歩を進める。気力が残っている時は世界の喧騒を噛み締め現実世界に戻るリハビリをする為必ずそうしていた。 今日の閉鎖空間は灰色だった。涼宮さんの不機嫌をそのまま色にしたような淀んだ世界。 それが閉鎖空間だと、たった一度足を踏み入れた経験から彼はそう信じ込んでいた。それは誤りではないが真実の全てでもない。 メールの着信を告げる振動がポケットから伝わり携帯を取り出してみると、彼からだった。 『すっぽかされた空き時間でデハートの物産展を冷やかしたら美味そうな弁当が目について買ってきた。お前の分もあるから食べに来い。』 と書かれていた。 タイトルは『お疲れさん』。 頬が緩み体から力が抜け、随分緊張していたのだと初めて気付いた。 「お疲れさん」 誘いに乗っかかり無遠慮に上がり込んだ僕を、彼は先程のメールのタイトルと同じ言葉で出迎えた。 『今から伺います』と場所を知らせてあったからだろう、ワンルームの真ん中に用意されていたミニテーブルの上には重箱に模した器に入った見目華やかな重量感のある弁当が二つ、使い捨てでない塗り箸を添えてセッティングされていた。 僕の到着を待って冷蔵庫から出てきた缶ビールを受け取りプルトップを開ける。炭酸がはじける音が耳に心地よかった。 「…何だよ」 「何か?」 「顔!にやけてるぞ!」 「僕の顔はいつもにやけていますよ。あなたもいつもそう言っているじゃないですか」 「作ってにやけているのと素でにやけているんじゃ意味合いが違うだろうが」 「あれ?それの違い、分かるんですか?」 「もう長い付き合いだからな」 ああ、確かに、今の彼の憮然とした表情が、本気のものか、照れや喜びといった別のものを隠そうとしてそうなっているのかの違いが僕には分かる。 ならあなたは、僕のこの狂おしい切ない胸の痛みの意味もお分かりですか? はずみで問いそうになり慌てて巻き寿司を口に押し込み栓をした。 出会いから五年、高校を卒業して二年と少し。僕たちの世界を構成する核は驚くほど変わっていない。 涼宮さんを中心とするSOS団は進路を分かった今も健在で、さすがに毎週末とは行かないが、月に一、二度は不思議探索と銘打った会合は続いている。SOS団の構成員は減ることなく、また増えてもいない。 高校の二年に上がった時薄々感じていたのだけれども、涼宮さんは変革を望んでいるようでいて、その実、この黄金律のような調和を崩したくないと思っている。 彼女が定めるところの彼女らしさにより新入部員を求めはしたものの、異分子の参入は拒んでいる。外因子は身内の結束を固める為に使われていた。 敵ですら、だ。 未だに僕たちは旧コンピ研の連中、旧会長らと、時々戯れの刃を交えている。 本当の敵は後を絶たないのだが、それらは相変わらず涼宮さんの前に顕在しない。彼女が認める友にも等しい敵は、あの頃のものたちだけだった。 ここまで保守的な人だとは思っていなかった。 涼宮さんは、もっと、世界も自分も目まぐるしく変化させ、ジェットエンジンを積んだ鉄砲玉のように拠り所を持たず飛んで行く人だと思っていた。 とにかく、僕たちはあまり変わっていない。 ただ変化はしていなくとも関係は深くなったと思っている。 以前は、涼宮さん絡みでなければ彼とは会うことも話すこともなかったけれども最近はそういうことは関係なく、外で待ち合わせ、内で酒を酌み交わし、成り行きで、一つ布団で眠ったりもした。 「なんか、いつの間にか古泉が一番の友人になっちまったな」アルコールの所為で潤んだ目をつまらなさそうに細めてそう彼が呟いたのは一年前のことだった。 「久しぶりだな、閉鎖空間が出たの」 「……そう、ですね…」 一瞬返事が遅れたが、ゴミを片付けている彼には気付かれなかったようだ。 存在とはつまり認識である。もっと言えば、第三者に認められて初めて、それは“在る”と言える。そういう意味では閉鎖空間が現れたのは四ヶ月ぶりだった。 「何があったんだろうな、ハルヒ」 「何か気に入らないことですよ」 灰色の閉鎖空間だったのだから。 「それ以外に何がある。世界を壊したい時に出るのが閉鎖空間だろう?気に入らないことがなきゃ発生しないだろうが」 遊ぶな、と口を尖らせる。二十歳を過ぎた男の人に使う言葉ではないが、非常に愛らしい。 愛しすぎても出るのですよ。 喉から出掛かった言葉を、僕はぐっと飲み込んだ。 涼宮さんはとても繊細な人だ。 などと言おうものなら彼は顔をしかめて否定するけれども世界が美しすぎて辛いだなどと感じる魂が繊細でないはずはない。 初めてそこに呼ばれたのは16の冬だった。 いつもの感覚がしたのに機関からのコールはなく、不思議に思いつつも足を踏み入れた。灰色の空間を覚悟していたのに目の前に現れたのは花畑だった。 それは閉鎖空間だった。 花咲き乱れ明るい日差しが降り注ぐ美しすぎる、それでも、涼宮さんが壊したいと願う世界の象徴。黒き醜き神人が現れ、全てを消滅させんと欲する空間と等しきもの。 その閉鎖空間に能力者は僕しか居なかった。僕以外の誰にも関知されることのない特異な閉鎖空間だった。 幼い、まだ素直だった頃の僕ならば真っ直ぐに上申したことだろう。直ちに分析班が結成され、僕を通して花畑は蹂躙されたに違いない。 けれども、その頃には僕には既に自我が備わっていた。涼宮さんの気持ちを慮れるほどの関係も築けていた。 僕独りに与えられた閉鎖空間、その使命を何故機関と共有しなければならないのか。重大な内規違反だったけれどもバレたらバレた時だと開き直り、僕だけの秘密の花園とした。 その後、その閉鎖空間に関わる能力者が増えることがなかったことを思えば、涼宮さんも暴かれることを良しとしなかったということだろう。 その丘には色とりどりの花が咲き乱れていた。 右を見ても左を見ても花、花、花。 地平の果て、その先まで延々と続く花畑。 鮮やかで、美しくて、幻想的で。 愛おしく、そして大嫌いだった。 閉鎖空間の当然として、異形の、黒い巨大な化け物現れが花畑を踏みにじる。 地面ごと薙ぎ払い、花が、花弁が雪のように舞う。 ただ一人選ばれた戦士たる僕は、心を押さえつけ、赤い珠となる。 この閉鎖空間の神人は、灰色空間のそれより随分と軟弱だ。僕一人の手に負える程度に、攻撃力も耐久力も弱い。本当に世界を壊したいわけでないという、主の想いを反映しているかのように。いつもそれは、二,三回ぶつかっただけでぼろぼろと崩壊をした。 神人が霧散すると同時に、世界が割れる。被弾した窓ガラスのように、一瞬にして砕け、散失する。その過程は灰色の閉鎖空間と全く同じだった。ただそれは本来の世界の解放であるはずなのに、楽園の崩壊にしか見えない。世界を守る為の戦いが、エデンの園の蹂躙にしか思えない。 そんなわけはない、僕は世界を守っているのだと信じているから、その様を呆と眺めるのだけれども、心は泣いていた。 何故、と、問う。 愛しいなら、美しいなら愛でればいいではないか。 どこに壊す必要がある、破壊する為に作る意味が一体何処に…。 泣きながら消えゆく花畑を追いかけ、それでも僕はその答えを既に持っていた。 美しい花は、消えるその瞬間もまた、美しいのだと。 次へ |