ココロはカンタン




 ここ数日機嫌が悪かった彼だのに、今日僕の部屋にやってきた時にはどことなく楽しそうな雰囲気だった。
 まだ残高の大半が残っているプリベイドカードをなくしたり、デジカメデータの詰まったフラッシュメモリを水没させパーにしてしまったり、その件で涼宮さんにボロクソに貶されたり、つい家族に当たって険悪になったりと、「ろくなことがねぇ。俺は厄年だったか?畜生、今年に入ってから冴えねーなぁ」と腐っていたので、気分転換になればと家に誘った。
 彼は最初はこんな状態でお前の部屋に行ったらちょっとしたことで当たってお前の気を悪くさせるからと固辞したのだが、いつもこっちが甘えているのだからたまには僕に甘えて下さいと押し切った。機嫌が悪くて人に当たる彼なんて珍しい、それもまた一興、たまには僕に気を使わず好きに振る舞って貰おうと決めていたのにだ。
 テンション低くぐったり炬燵に突っ伏す彼に、甲斐甲斐しく飲み物や食事を用意し、風呂を張り、ボードゲームでわざと負けて花を持たせ…はしなくとも僕は殆ど彼に勝つ事はないのだが、とにかくとことん持ち上げよう、最終的には機嫌が直って笑ってくれればそれで成功、と思っていたのにあてが外れてしまった。
 ほら、今も何かを思い出したのか、口元をゆるめている。
「機嫌、良さそうですね?」
 訝る気持ちを抑えて問うと、彼はああ、と、更に顔をほころばせた。
「シャミがさ」
「また喋りましたか?」
「アホか!ちげーよ!んなことされたら笑ってられるか!…じゃ、なくてだ。
 …最近あいつ、母親に一番懐いちまって、何かものをねだる時でもなきゃ、俺に寄って来ないんだ。ベッドに上がり込んでは来るんだが、抱き上げると煩そうに顔を背けて離れたがって、あまり触らせてくれなくなってたんだ。嫌われているわけじゃないんだが、蔑ろにされている感じだな。
 それが今日出がけにヘコむことがあってな。いや、着替えをしようとズボンを脱いだ時にバランスを崩してとっさに手にした文庫本を折り曲げてしまったというだけだが、最近の不幸続きを考えると、またかよ、と情けなくなって頭を抱えていたんだ。その時、ベッドの上で眠っていたシャミがするっと降りて来て、俺の足にすり寄って、しっぽをこう…、くにくにっと絡めたんだ。「少年、そういう時もあるさ、気にするな」とばかりに一声、にゃあ、って鳴いて、いかにも慰めてくれてるって風情でさ。
 普段は邪険にされていることを思うと、何だか凄く嬉しくなってな。足にすり寄った腹とか、巻き付いたしっぽが暖かくてなんかこー、心がほっこりして…、それでクサクサした気分が一気に吹っ飛んだんだ。
 人間の心って簡単に出来てるよなー」
「………」
 話す彼は嬉しそうだが僕は面白くない。
 ここ数日、彼は本当に機嫌が悪かった。というか落ち込んでいた。僕がどれだけ慰めても効果がなくとりつく島もない感じだったのに、猫のしっぽ一つで篭絡されるのか。
 何だかムカムカしてきた。
 折角用意した、彼のお気に入りの菓子や総菜、リラックス効果のあるバスオイルが一瞬で色褪せた。出番待ちで楽屋に詰めていたのに、舞台に上がらないまま「今日はもう帰って良いよ」と言われたようなものだ。
 人の気も知らないで、彼はもう一度その時を思い出しているのだろう、遠くを見てにまにましている。
「今日は良い日だなー」
「…そうですか?」
「ああ。シャミに慰められたし、明日は団活がないから今日は古泉とゆっくり過ごせる。何かこー、…うん、幸せな気分だ」
「………」
 最近、ヘコむことが多かったから、随分安いよな俺、と、無防備な笑顔を向けられ僕のわだかまりは一瞬で氷解し、胸に色とりどりの花が一斉に開いた。

 なるほど、彼の言う通りだ。
 人の心は簡単に出来ている。