夏夢草



 夜で、夏だった。
 空を見上げる僕を、僕は見下ろす。
 ああ、これは夢だ。
 夢を夢と自覚して見る、明晰夢の中に、今僕は居た。
 夢であるけれども妄想や作り事の類とは違う。過去に、自分の内面を時間を遡行して潜っているのだ。
 輪郭の怪しい、濃いクリーム色の月が目に入る。
 アレハ、アンナニアカインダ。
 そう思ったのは今の僕ではない僕、10年前、初めて人間になった時、コイズミイツキとして世界に存在したなりの僕だ。
 あれは赤ではなく黄色だと、人の色覚に慣れた今の僕なら思う。だがあの当時は、それまで弱い色でしか認識できなかった目ではあの鮮明な色彩はアカに見えたのだ。
 そんなこと、とうに忘れていた。
 ヒトになって初めて見たのが月だということも、月が赤いと思ったことも記憶の彼方だ。
 今この現とは少しずれた場所で、僕は当時の意識と今の意識を両方重ねて持つことができていた。
 ぐるりと見渡し二,三歩歩くと視界がぼやけ、場面が変わる。
 僕は、空虚な空間に立っていた。
 ここは僕がヒトになって最初に住んでいた部屋だ。機関に宛がわれた集合住宅の一室で、後に得た知識で言えば、社宅のようなものだった。
 室内はがらんとしてして家具もなく、カーテンもない。床に転がって眠っていたので寝具もない。移ってきたばかりだからではない。住み出して一月は経っていただろうか。その証拠に部屋の隅には野菜クズが入ったビニールがいくつも転がっていた。あれは、ゴミだ。と、今の僕なら思うが、当時の僕は目に入っていないかのように気にしない。眠る場所さえ安泰なら他がどれだけ荒れようが  ましてや襲われる心配のない無機物だ  何を捨てようが抱え込もうが気にならなかった。
「お前はなりきるのが遅いわね」
 森さんがため息混じりに言う。堅苦しいスーツに身を包んですっくと二本足で立つ森さんは、既にすっかり人間だ。…と、当時の僕は感心しているが、今の僕は彼女のなりきりもまだまだ甘いことが分かる。
「外だけではダメよ。内でもなりきるように心がけなさい。
 朝起きて顔を洗う、歯を磨く、料理した食事を食器を使って食べる、服は毎日着替えて風呂にも入る、布団で眠る、それから」
 “ゴミ”を拾い上げてゴミ袋に移した。
 この部屋全体が、あなたの巣よ、と言った。
 ヒトは獣に比べて“巣”が広い。この部屋一帯がヒトの子の平均的な巣の広さだから、あなたもそう扱いなさい、と。
 こんなに広い巣があるものかと口にはしなかったが見開いた目で分かったのだろう、森さんは苦笑する。
 私たちは自らが抱え込める範囲ででしかものを溜め込まない。強いものは強いものなり、大きいものは大きいものなり、弱いものは弱いものなりの。でもヒトは、器に合わぬ巣を持ち、身の丈以上のものを抱え込む。身一つではあまりに弱いのに、その弱さに合わない力を望む、その歪な性質が生んだ、それもヒトの習性なのでしょう、と。
 奇妙には思いつつも、それがこの種の生体であると自分を納得させる。身一つで守れないほど大きな場所に住む。過分な気がするが、それがヒトならば僕もそうしなければならないだろう、とあの頃の僕はため息を吐いた。

 涼宮さんによって生まれ出ずった能力者集団「機関」の構成員は、全員が元はヒトではない何かで、使命と力を与えられたその時に人になったものだった。
 所謂動物と呼ばれる類のもので、種類はまちまちのようだったが、己が何者であるかをヒトの概念で知る生き物など居ない。ヒトとなってから集まった僕たちは、かつて自分が何だったか、正確に語ることは出来なかった。ただ、家畜に属するもの  犬,猫といった  のなりかわりはヒトの視点からかつての己の属性を探ることは容易だったようだ。
 言い換えれば、自分が何であったかをはっきりと言えないものは、あまり人間と接することのない種だったのだろう。あるいは、僕のように視界が酷く覚束なかったものか。
 涼宮さんが、自分のストレスを取り除く為の人員を、ヒトでない生き物から選んだ理由は定かではない。
 人間的傲慢な見方をすれば、あのストレス空間での激務を科し、万一命を落としても元が人間でなければ構わないだろうと考えた、だが、機関員は誰一人としてその仮説に首肯しない。
 元が何者であったかはっきりしない僕たちだが、みな、種の中では弱者であったことは憶えている。
 生まれつき片足のもの、目が見えないもの、そもそも種として成体になれる確率が1万分の1に満たないもの。僕は五体満足だったが、一緒に生まれた兄弟たちより体が小さく、体力もなく、何をするにも劣っていた。当時は見当が付かなかったが、今ならなんとなく分かる。僕は多分アルビノだった。
 僕たちは皆、自然界では早々に死ぬ運命だった。だから、涼宮さんは僕たちを生きながらえさせようとした…、使命を与える代わりに命を延ばしたのだ、とする説が大勢だ。それこそ人間の傲慢、余計な手出しだ、と言うものはあっても、底には優しさがあることは誰もが認めている。


 また、数歩歩くと場面がかわり、ふいに、手が熱い塊に包まれた。
「あなたこそ、SOS団に相応しいわ!」
 そう言い涼宮さんは僕を部室棟に引っ張って行った。
 北高に、転校したての頃だ。
 “僕”は酷く戸惑っている。“僕”は懐かしくて微笑む。
 この先に彼がいると、僕は胸を高鳴らせ、一体どこに連れて行かれるのかと僕は怯える。
 ヒトの世界に入って三年。
 僕はヒトとしての生活に慣れ、獣だった頃の記憶は殆どなくなり、僕はもう人間なのだと思わないほど人間だった。
 ばんっ、と涼宮さんがドアを開けた部屋の中に、彼が居た。
 しかめつらのまま驚くという、愛らしい顔をして、僕をまじと見る。
 “僕”はにこやかに手を差し出すが、実のところ彼のことは全く眼中にない。見えてはいるが、てるてる坊主のようなのっぺりとした姿に、識別タグのように名前が書かれている。
 今となっては愛しさしかこみ上げてこない立ち居振る舞いを、あの頃の僕は全く知覚していない。目を持たぬものの前ではどんな至宝も輝きはしない。今なら分かる、彼の魅力を、この愚かな成り損ないは気付いていない。

 すっかり人間だと思っていたが、こうしてみると僕はあまりにいい加減だ。
 涼宮さんはじめ、皆に向ける笑顔のなんと胡散臭いことか。心から笑っているつもりだったのに、笑っているお面をつけていただけではないか。長門さんのことを無表情だと思っていたが、そして今でも確かに当時はそうだったと思うが僕も同じだ。当たり前だ。ヒトの形となった時期は、僕も長門さんも大して変わらないのだから。
 物事に対して浅学で、経験不足を埋める為に、僕は書物から得た知識をやたらと披露した。ヒトであればこそ得られるそれらを見せ付けることで、正体を隠そうとしていたのだろう。
 だが、書物だけから得た知識は底が浅く直視眼的で、もっともらしくは聞こえてもその実的外れで、彼はよく呆れていた。呆れられていたと知ったのは後になってからで、あの頃はただ、彼の方こそ見識が浅く、僕が導かなくてはと思っていたのだ。

 狼少女の話を思い出す。
 赤ん坊の頃から八年を狼に育てられた少女は、人間の世界に戻っても最期まで人語を話せず、二足で歩くことすら困難だったという。
 氏より育ちという格言を後に付け語られることの多い逸話だが、少し違うと思う。
 犬猫が人間に育てられたからと言って人語を話し二本足で生活するようになったという話は聞かない。
 人間というものが、他の種より難しい生き物なのだろう。道一つ外せば、もう戻れなくなるくらいに。
 人でなかったものに人の形を与えたとして、10年20年でなりきれるわけがない、と、僕を見て涼宮さんは  もちろん無意識下でだけれども  思ったに違いない。


「僕は元々人間ではありませんでした。涼宮さんの力で人間になった、野生の動物です」
 ある日、僕は彼に打ち明けた。
 心が通じ合い、体を交わすようになってから少し後のことだった。
 その数週間前、僕は事故に遭って酷い怪我をした。命に別状はないものの、暫くはベッドに固定され一人では寝返りを打つことすら出来ない状態だったのに、誰一人身内を呼べなかった。それまで僕の出自等について興味を示したことがなかった  あるいはそのフリをしてくれていた  彼だったが、その時初めてちゃんとした説明を求めた。
 上辺だけの友情ならともかく、一生付き合っていく気だから知っておきたい、と言われれば話さないわけにはいかなかった。
 機関が用意した人間古泉一樹用の設定というものはあり、それを話しても良かったのかもしれないし、まだ情が深くない頃であればそれで誤魔化しただろうが、その時になってはもう僕は彼に嘘を吐きたくはなかった。だから、包み隠さず正直に話した。
 打ち明けると彼は、取り立てて驚くそぶりもみせず「そうか」と言った。信じてくれたのかと驚くと「ハルヒのすることだしな」と苦い顔をした。「出会った頃だったら信じなかっただろうがな、今じゃお前の顔色くらい見破れるしな」と付け足されたのには少し複雑だった。
「で、お前は何の動物だったんだ?」
「…やはり気になりますか?」
「元は何であれ今はお前は古泉だし気にしちゃいない。ただの好奇心だ。…とは言え、お前の部屋の台所に良く出没する光沢のある茶色の虫だったりした場合は…少々覚悟が、まあ、要るがな」
 飼っているんじゃないかってくらい頓着しないから、案外兄弟だったりするか?と茶化し半分恐れ半分で問ってくる。もちろんそんなはずはない。あんな繁殖力の強いものを涼宮さんは選びはしない。
「野生の小動物です。アルビノの。多分イタチ科です」
 目の前に居た兄弟たちはそのような形態だった。
 不思議なことに、当時は弱い視力でも匂いの力を借りてか兄弟たちはそれぞれまるで違って見えたのに、ヒトとなった今は、よく似た動物の個体を見分けることは難しい。
「良いさ、何でも。どうせ俺たちは節理から外れているんだ。お前の種が男でも孕めるとか…」
「まさか!イタチ科は雌雄異体ですし、万が一その可能性があっても孕むのは僕の方ではありません。それに…」
「あと、いきなり元の動物に戻るとか、じ、寿命が人より随分長いとか…逆に短いとかでなければ、な」
「…」
 僕がなにものかより、異類婚姻譚で見られるその手の悲劇を心配したのだろう。何気ないそぶりでいて不安を隠しきれていなかった。
「…大丈夫ですよ。僕たちはもう人間です。ヒトの遺伝子を持ちヒトの生理を持ちます。寿命も生体も人間と同じです。機関の中には人間と結婚し、子供をもうけたものもおります。人間の子供です。
 涼宮さんはそんな半端なことはなさいません」
 そう、彼女はとても完璧主義者だった。


 体に吸収され難い栄養素というものがある。100摂って身のうちにとどまるのは1というような。
 無能ではないが物覚えが非常に遅い子がいる。一つの漢字でも千回書かなければ憶えられない、そのかわり千回書けば必ず身につくというような。
 それと同じく、何度も何度も何度も何度も同じことを繰り返し、鍛えられ、少しずつ、ほんの少しずつ僕は人になった。
 多分、少しずつ。
 こうやって過去を遡ると、ある日を堺に劇的に変わったとしか見えないのだけれど。
 当時は前の日の次の日、その日は連続した一日だと思っていたので、何の疑問も持たなかった。自分では僕は“前日”と変わったところは何もないと思っていた。
 ほら、その日の僕は昨日の続きとしてその日を、携帯のアラーム音とともに始めている。
 今なら分かる、前の日までのお前はなり損ないで、その日からは人だ。
 伸びをして起き上がり、窓を開け、まだ爽やかさの残る朝の風を室内に入れる。今日辺り呼出しがかかるだろうと、半ば確信めいた期待を胸に携帯を見る。何故期待するのか、何故いきなり期待するようになったかを思ってもいない。
 ただ、2週間会わないでいた友人たちの顔を浮かべて胸が締め付けられるような切なさとくすぐったさを感じる。僕も随分SOS団にハマったものだと苦笑した。
 …友。
 そうだ、友と思った。この日、突然。
 それまで一線を画していたひとたちを、いきなりに。
 午後になって再会した彼らは、識別タグではなく、ちゃんとした顔を持っていた。
 あの時の僕はそのことに疑問を抱いてはいない。記憶をリセットされても体内に蓄積されていた。だが今こうやって見ると、結構シュールだ。前日までテルテル坊主だったものがいきなり人になったのだから。
 僕の心情も、こうやって見ると別の人間と入れ替わったのではないかと思うほど、前日とは違っている。傍から見ると、これほどまでに違和感があったのだ。


 高一の夏、二度と戻りたくはないけれども愛しすぎる日々。涼宮さんが六百年の足踏みをしたあの夏。
 あの繰り返しは、涼宮さんがやりのこしたことをする為に行われたというのが、情報統合思念体の仮説であり、夏休み最終日に宿題を皆で片付ける、がそれだ、ということに、彼が実行しその後ループが切れたことで定説とされた。
 だが僕は違う説を持つ。
 当時はその説こそが真実だと思っていたが、後で良く考えると齟齬があった。
 あの六百年は、僕が、僕たちヒトではなかったものが、完璧に人間になる為の修行期間であったと今では思っている。
 僕たちをヒトにしたものの、僕たちはあまりにもヒトらしくなかった。良かれと思ってしたのに、このままでは人間社会で浮いてしまうしはみ出してしまう。人間らしく振舞えるよう、経験を積ませなくては。そう優しい涼宮さんは思った。これからの一生の為に、少しぐらい回り道をしても良いだろう、と。
 僕たち…僕は思いのほか飲み込みが悪く、人らしくなるのに六百年もかかったのは涼宮さんにとっても誤算だったに違いない。
 涼宮さんが、遣り残したことをする為に夏を繰り返したという仮説自体には異議はない。ただそれは、夏休みの宿題などではなく、彼女が自らの手で変容せしめたものたちの、完璧なメタモルフォーゼの為だと、僕は一人確信している。
 では宿題は関係なかったのかと言われればまるきり無関係だったわけではない。
 あの時、あの案を思いついた彼に、僕は痛く感服した。それに違いないと確信し、なんと凄い人なんだろうと、今まで以上に心打たれた。今まで何度もそう思うチャンスはあったし、実際思ってもいたのだが、心を貫通したのはその時が最初だった。
 感動し通しで、それでも手は目一杯動かしノートを埋め、体も頭もくたくたになりつつも宿題を終えた達成感と開放感に身を委ねていた時。
「あなたが好きです」
 つるりと、思考するより先に言葉が口から滑り出ていた。
 少なくともその時点では、性愛的な意味はなかった。気付いていなかっただけかもしれないが、ただ同じ人間として、そう思った。
 彼にはどう伝わったのか…、疲れていたのかもしれないが、時に顔色を変えることもなく「そーかい」とだけ返して大あくびをした。
 もう真夜中と言って良い時間で、二人して手分けをして女性陣を送って行こうと階下に降りた時だった。朝比奈さんと長門さんは先に玄関に待機しており、涼宮さんはトイレに行っている、という状況。
 多分あれを涼宮さんに聞かれたのだろう。聞かれて、涼宮さんは、僕はもう人になったのだと確信したのだろう。
 次の日が9月1日だった時は、ただただ彼の慧眼に恐れ入ったものだが、後になって涼宮さんを知れば知るほど、それはおかしいと思うようになった。涼宮さんは、自分の欲望であそこまで過去にしがみつく人ではない。彼女は一瞬一瞬を全力で生きる人で、流れた時は二度と取り戻せないと誰よりも強く確信している人だ。よし、やり残したことがあるとして、彼女であれば取りに戻ることはしない。未来の、次のチャンスに繋げようとする、そういう人だ。
 だから、あの延々と続いた夏休みは、僕たちの為だったのだと思っている。


***

 もう少しまどろみたかったのだが、瞼の裏にまで届く日の光がそれを許さないらしい。自然に目が開いた。
 真っ先に目に入ったのが、炬燵でお茶をすすりつつ、本を読む彼の横顔。
「…おはようございます…」
「おそよう」
 時計の針は10時を指していた。
「休日だからっていぎたない。もう少し規則正しい生活ってのを心がけたらどうだ?獣ってのは日照に合わせて生きるもんだろうが」
「僕は自然の摂理に背を向けて生きる現代の人間ですから」
 こういう時でないと出ない彼の嫌味を気に止めず、ずるり、とベッドを這い出し炬燵に潜り込んだ。
「こら!三方があいているんだからわざわざここに来るな!狭いだろうが!」
「僕は元が獣ですからね、引っ付くのが好きなんですよ」
「お前さっき『人間だ』って言ったばかりだろうが!」
「夏の夢を見ました」
「…この真冬にか?」
 だからこそ憧憬するのだろう。あの焼け付く日差しに照らされた、甘酸っぱく輝く日々を。
 冬でも陽だまりの匂いのする体を抱きしめ息を深く吸う。
「…おい?」
「涼宮さんって、本当に凄い人ですよね」
 この陽だまりを僕にくれた。それがどれほどのことを意味するか、恵まれた彼は思いもしない。
「お前のハルヒ崇拝は年々酷くなるな」
 それは年々あなたへの想いが強くなるからだ。人になれたことはさして重要ではない。もう獣時代の記憶はない。ただ、人になればこそ得られたものが大事なのだ。
 分かってもらおうとは思わないので、口を閉じ彼の腹に頭を埋める。彼もそれ以上何も問わず、僕の髪を優しく梳いた。
「ハルヒという人間も、その馬鹿馬鹿しい力も凄いとも偉いとも思わないけどな、お前がそれで幸せになったというのなら、その件に関してだけは俺もハルヒに感謝するよ」
 髪をまさぐる暖かい手。それを幸せと感じられる心。
 あの夏は、此処につながっているのだと、この陽だまりの中、僕は深く実感した