あの朱い夕闇の中に



 
 一番好きな色は?と問われれば答えに窮する。好きも何も、色の好悪など考えたことはない。
 だが、一番激しい色はと問われれば、あかだと答える。国旗に描かれる血色のそれではなく、夕暮れ時太陽が空を染める朱のあか。
 一番暖かい色も、一番切ない色も、一番哀しい色も、一番激しい色も同じだ。
 その色は俺にとって、ただ一つの特別な色だった…。


*


 部屋の掃除を済ませ、ペットボトルの茶で喉を潤していたところ、来客を告げるチャイムが鳴った。
 ロックを外しドアを開けると、一年前、いや、五年前、この十年変わらぬ超然とした微笑をたたえ、古泉が立っていた。
「お迎えにあがりました」
 どこかしら湿り気のある甘い声も変わっていない。…全く同じということはないだろう。出会った頃から干支は一巡している。俺が認識し損ねているだけで、多少は老けたし低くなっているはずだ。十年も変わらぬものなどどこにもない。ないと思いたい。
「もうそんな時期か」
 そう返したが、今日という日を忘れてはいない。部屋は年末でもかくやというほど丁寧に掃除は済ませたし、大家に挨拶もした。冷蔵庫には保存がきく調味料の類しか残していない。準備は万端だった。ただ、いつもより少し時間が早い。
 そんな俺の顔色を読んだのだろう。古泉は肩を竦めて苦笑いする。
「お土産に花でも買って行こうと思ったのですが、種類が多く僕では決めかねましたので、一緒に選んで戴こうと思いまして」
「土産?どっちにだ?」
「…主に長門さんに、と。退屈していらっしゃるでしょうし」
「あいつなら花より食い物か本だろう」
「ええ、長門さん自身がより喜ばれるのはそちらかと思われます。ですが、そういったものは毎年持って行っておりますし、今年もあなた、用意していらっしゃるのでしょう?喜ばれるに越したことはありませんが、花を見て心が潤う、そういう気持ちを忘れられませんよう、思いを込めて。…あんな場所にいるからこそ、彼女には人でありつづけて欲しいのです」
 傲慢ですかね?
 そう言われれば、俺に否を唱える意はない。
「別に持ち込み制限があるわけじゃない。花も持っていけば良いさ」
「制限は、一応あります。僕とあなたが、手を繋いで歩くことを妨げるものは持っていけませんよ」
 相変わらず要らん粘度のある言い種だったが、これを聞くのが年に一度となればそれなりに懐かしくもある。あえて不問に伏し、俺たちは花屋に寄る時間を考慮して、いつもより早めに家を出た。


*

 両手と背に大荷物を抱え、今では年に一度しか上らなくなった、かつては年に300日は通った坂を上る。
 その坂は、ただの道ではない。
 普通の人間にとっては散歩のルートに選ぶにしては急勾配すぎるただの市道だ。だが俺たちにとっては、時間という絶対的な支配者により遠く引き離されてしまったあの時代に遡行する間道である。もちろん比喩だ。はるか彼方なる未来人でもなければ、時間を遡るすべは俺たちにはないのだ。決して。

 坂を上るにつれ、だんだんと人足が途切れてくる。見慣れた校門の前に立つ頃には、周囲どころか半径1キロ以内に人気を全く感じなくなる。
 今年はたまたま日曜だが曜日でなく日で決まっているので、必ずしも休日ではない。また、休日とはいえ夕刻、クラブ活動の学生、顧問、宿直の教員が居てもいいはずだ。
 だがこの日この時ばかりはあたかも場を清めると言わんばかりに静寂が包む。かの番人、いや、守り人の手によって。

「では、お手を」
 校舎の前まで来たところで、古泉が、どこぞの姫君をエスコートするかのように手を差し伸べる。口調は密やかだが声音は真剣だ。悲壮感すら漂う。それを笑う気にも咎める気にもなれない。今年こそはという淡い期待と、どうせ今年もという絶望に似た諦観。早く行きたいと気が急く一方、行きたくないと尻込みもする。
 正直、古泉の手をとるのは十年経った今でも怖い。今だからこそ怖い。初めのうちこそそれまでと同じく、危機ではあっても最終的には何とかなると思っていた。もちろん、今だってまだ最終段階ではない。まだ諦めるには早い。それでも、目に見える僅かな前進もなく、希望を抱き続けるには十年という歳月は長すぎた。
 ただだからと言って俺たちにしか許されていない役目を、放棄するつもりもなければ、頼まれても譲りはしない。
 なるべく無造作に手を伸ばしたが、古泉はお見通しだ。共犯者…いや、同病相哀れむの体で緩く笑んでその手を握った。
 先導され、校舎に入る。
 古泉に掴まれている指先にゼリー質の膜のような感触を得、それを合図に目を閉じる。古泉は開けていても害はないと言うが、この閉塞的境界を眼球に感じるのはどうしても躊躇われた。それに、これは俺のテリトリーではない。客意識というより敬意を表して、この異空間に足を踏み入れる瞬間は、俺は見てはいけない気がしていた。
 左足の踵が抜け、全身が通った感触がし目を開けると、先ほどまでとは比べ物にならないくらい、荒廃感すら漂う寂寞とした空間が広がる。
 ただし、全く違う場所に入り込んだ感じはしない。漂う雰囲気と色さえ無視すれば、三年間通った懐かしの校舎そのものだ。全体的に暗いが大昔入り込んだ闇色の閉鎖空間とは違い、全体に灰色の透明シートをのせたような、くすんでぼやけた色彩の世界だった。
 その中で俺と古泉はちゃんとした色を持つ。ヤツの今日のシャツは、薄いパステルグリーンのカッターだったが、この中では蛍光色のように発光して見えた。

「…行くか」
「はい」
 どこに、とは言わない。分かりきっている。
 繋いでいた手を離し、肩を並べて歩く。
 部室棟に入り階段を上がる。3階に上ったところで、窓から差し込む夕日に足を止める。
 朱い。
 灰色がかってはいるが、その程度の澱みで曇るものかと、皎々と朱い。毎年見る風景だったが毎年立ち止まり、目を細める。全身を舐めるように纏う日差しに、悔やんでも悔やみきれないあの日を、あの時を思い出す。
 古泉も同じ気持ちなのだろう。酷く遠い目をしていた。
「…行こう」
 過ぎた時は戻らない。だが、時は必ず進むわけではない。
 世の理によって人の時は最期には止まる。ごく、希に、人の意志によっても。

 一年ぶりの、通い慣れた部屋。目を瞑っていてもたどり着けるが扉上のプレートを確かめる。ズタズタに破かれた紙の下から「文芸部」という文字が見える。殆ど原形を留めていない、その上から張られた紙は、何が書いてあったのかは既に分からないが俺達は知っている。「SOS団」そう書かれていたのだ。それを破いたのと同じ、あいつの手によって。
 ノックをすると「どうぞ」と中から声が返ってくる。録音テープを再生しているのでないかと疑うほど、その声は去年と全く変わっていなかった。
「よう、長門」
「お久しぶりです、長門さん」
「………」
 長門の顔が数ミリ縦に動いた。俺や古泉は10年前に決別した北高の制服をきっちり着込み、当時と変わらぬ顔立ちですっくと立ち、長門は俺達を迎え入れた。
「これ、差し入れ」
「僕からもです」
「…ありがとう」
 俺が差し出したのは食べ物と、二十冊ほどの本。この一年で美味いと思ったもの、面白いと思った本を選んで毎年持ってくることにしている。
 古泉からも、同じものと、先ほど買ったカサブランカを中心にした花束。一旦は俺は花束を持ってくる事に反対した。せめて鉢植えにしようと。花束は今綺麗でも必ず枯れる。次代を残すこともしない。萎れた花とともにあの部屋に残る長門を思いたくはなかった。
 だが古泉は首を横に振った。「枯れるからこそ、持っていきたいのです。どんな綺麗なものでも、命ある限り必ず枯れ死ぬ、それをお二人に忘れないで戴きたいのです」と。とんだ乙男発言だと思ったが、それで分かった俺も大して違いはないのだろう、納得した俺は、古泉と一緒に、今はとにかく美しく、そして醜く枯れる花を選んで束ねてもらった。
 生きとし生けるものは必ず死ぬ。そんな常識をともすれば忘れかねないものたちの為に。

 長門と一通り再会の挨拶を済ませた後、一つ深呼吸し、部屋の中央にゆっくり向き直る。
 去年いや、10年前と変わらず、そこにはほの朱い光を放つ直系1mほどの珠が宙に浮かんでいた。
「よお、ハルヒ、久しぶりだな」
「こんにちは、涼宮さん」
 二人して声をかけるが、いつもの如く、珠の中で膝を抱えて丸くなっているこの世界の主からは返事はない。
 抱えた膝に顔を埋め、髪が覆いかぶさっているのでどういう表情をしているのかも読めない。
 ぴくりとも動かず、生きているのか死んでいるのかも見る限りでは定かではないが、この世界が綻びなく保たれていることを思えば、深すぎる眠りについているだけだと知れる。
 目覚めるあてのない、深遠なる眠りに。


*

 かつて、閉鎖空間で古泉が変身した赤玉を思わせる球体に、ハルヒが自分自身を閉じ込めたのは11年前のことだった。
 高校生活最後の年、ハルヒはついに自分の持つ力に気付いてしまった。認めた、と言った方が正しいのかもしれない。あれほどまでに不可思議事が群れを成し押し寄せ、俺たちの尽力があったとは言えハルヒが気付かなかったのは、当時は否定していたが今なら分かる、ハルヒ自身があまりに常識人だったからだ。
 ハルヒが知った真実は、アサリが身のうちに貯めた砂のごとく僅かなものだったが、芋づる式に多くの秘密を日の下に晒した。馬鹿でも鈍くもないあいつが、ほんの僅かな綻びから全容を察するのは容易だっただろう。
 子供の頃出会ったジョン・スミスのこと。秋に桜が狂い咲いた理由。忽然と消えた同級生の行方。
 正確な正体までは掴めなくとも、長門が人間でないことは知った。己の内面をどこまでも深く見たので、理不尽に発生させた異空間とそこでの古泉に対する仕打ちも知った。朝比奈さんについては、直接の手がかりはなかったが、俺がただ人であることは肯定したので、俺をジョン・スミスたらしめた人物を消去法的に求め、漠然とは知ったと思う。

 とにかくハルヒは、自分の力としでかして来た事を知ってしまった。
 知ったが多くのものが危惧したように、世界は崩壊せず、それどころか変容もしなかった。一見したところは。
 半径一キロ程度の閉鎖空間が発生したが、それは膨張することなく静かに自身で終始していたので、ただ二人を除いて知るものはいなかった。
 ハルヒはSOS団室を中心にして北高を包む閉鎖空間を作り上げた。古泉が化け物と戦っていたあれと違うところは、神人が居ないことと、灰色にくすんだ世界だというところ。いわば「閉鎖空間・改」だな、と、自虐まじりとは言え軽口が叩けるようになったのは最近になってからだ。
 この空間の中心、SOS団の団室の中央に、カプセルが如き球体を作り、ハルヒは自らを封印した。自分自身を閉じ込め心を閉ざし、誰の説得にも耳を貸さず、実力行使にもびくともせず。
 自分の力のもたらすものの大きさに衝撃を受け、今までしでかした暴挙に怒り、今後も繰り返してしまうだろう罪に怯え、自己嫌悪に苛まれた結果だ。消えたいと願ったかもしれない。たがそれは許されなかった。消えたくないとも思っただろう。
 ただ深く心を閉ざし、世界との関わりを全て断った。
 「世界は変容しなかった」と言ったが、涼宮ハルヒという少女が一人、世界から消えた。存在が、記憶からも、記録からも居なくなった。一人娘だったハルヒだが、涼宮家から居なくなり、ハルヒの両親だった夫婦は、我が子の記憶を亡くし、子供が居ないことを時折寂しく思いつつも、仲むつまじく暮らしていた。北高の名物としてその名を他校にまで轟かせた迷惑ではあるが愛すべきクラスメイト、先輩、後輩、教え子としてのハルヒを、誰一人憶えてはいなかった。「ハルヒだよ!涼宮ハルヒ!映画撮ったりバーベキューしたり、色々遊んだじゃないか!何で知らないなんて言うんだ!!」と、谷口に掴みかかり、古泉に羽交い締めにされたりもした。
 俺と、長門と、朝比奈さんと、古泉、SOS団の団員を除いて、そう、あの鶴屋さんでさえ、ハルヒに関する記憶を失っていた。

『キョン、ごめんね』
 最後の言葉がそれだった。弱々しげに泣きそうな顔をし、本当に謝って欲しかった時には一度も聞けなかった言葉を、一番言わなくて良い時に言った。
 お前が悪いんじゃない!と大声で叫び詰め寄ろうとしたが、次の瞬間眩い光が辺りを包み、俺の意識は途切れた。
 次に目を覚ました時には、「ハルヒの居ない世界」が完成していた。
 思いつく限りの場所を走り回り、人々の肩を揺すった。長門により改変された世界に飛ばされた時より焦燥していた。あの時と違い、理由ははっきりしている。明確で、ハルヒが消えた訳を思えば思うほど焦らないわけなはいかなかった。
 「落ち着いて下さい。涼宮さんはこの世界にはいらっしゃいませんが、別の場所にちゃんとおいでです」と古泉が宥めてくれなければ気が狂っていたかもしれない。
 古泉が案内したのは、古泉でなければ察知できない異空間…、あの閉鎖空間の亜種とも言える場所だった。
 その場所は、現実の北高と重なって存在する一種の位相空間で、存在する建造物は現実のものと変わらなかった。古泉に手を引かれて入った場所なのだから、まともな世界であるはずがなかったのに、俺はその時は全く気に留めなかった。見慣れた校舎のはずなのにくすんだ色彩の、人どころか虫も鳥も鳴かず風すらない、そんな異様な空間だったのに、そのおかしな雰囲気には気を止めず、ただハルヒの元への急いだ。
 古泉が先導しようとしたが案内されなくとも分かる、部室棟の3階に駆け上がり、馴染みの部屋のドアを引き千切る勢いで開けた。
 …そこで初めて俺は、朱い球体、そしてその中に蹲るハルヒを見た。
 暫し呆然とし目が離せず、頭の中を甲高いサイレンのような音がずっと鳴っていて、それが朝比奈さんの泣き叫ぶ声だと気付くには実際には1分も経ってなかっただろうが、体感では小一時間も後の事だった。
 球体の脇に朝比奈さんが、「ごめんなさいぃ、涼宮さぁん、あたし…、あた…」等と意味不明な言葉を叫び、床に座り込んでいた。
 その隣に長門が背筋を伸ばし立っていた。真っ直ぐにこちらを見る顔はいつもの如く一見無表情だったが、深い悔恨が刻まれて見えた。
 いつの間にか真後ろに立ち、支えるように俺の肩に手を置いていた古泉が、長く、深いため息をついた。
「…どういうことだ、これは?」
 聞かなくとも分かったが、尋ねずにはいられない。
「…ご自身ごと、涼宮さんはご自分の力を封印されたのです」
「天岩戸かよ」
「あれはアマテラスがスサノオに怒り閉じこもりました。ですがこれは涼宮さんの憤怒と恐怖が、内側に向いたことが原因です」
 長門を見ると、幽かに頷いた。
「生きているのか?」
「時間凍結が施されている。呼吸、心拍は観測されないが生命活動が停止したからではない」
「深く眠っている状態と見て良いでしょう。ただし、睡眠時も継続される代謝活動はない。…老いない、成長しないということです」
 俺たちは、努めて冷静に会話する。そうしないと精神が焼ききれてしまいそうだったからだ。少なくとも俺は。
 朝比奈さんだけは、ずっと泣き叫んでいた。


*

 引きこもってしまったハルヒを呼び戻そうと、俺たちは色々な事を試みた。宥めたりすかしたり泣き落としたり、それこそ、分岐の多いシナリオゲームの選択肢を一つずつ潰すように片っ端から。…だが、全く成果は上がらなかった。
 長門の力でどうにかならないかと聞いたが「今の涼宮ハルヒの前では私の力は無効」と返って来た。親玉からの許可がないとか、そういうレベルではなく、全てを知ったハルヒに対して、情報統合思念体を以ってしても成せることはないのだと。
 俺たちは絶望し、それでもどうにか立ち直り、こうなりゃ長期戦だと覚悟を決めた途端、朝比奈さんが離脱した。彼女自身の意思ではなく、未来からの帰還命令が出たのだ。絶対命令であるにも関わらず、朝比奈さんは一旦は果敢にもそれを拒否した。涼宮さんを、このままにしておけません!未来へ帰れなくなるとしても、あたしはここに残ります!と、決死の顔で宣言したが、聞き入れられなかったのだろう。その翌日には朝比奈さんは、人知れず姿を消していた。
 代わりに、数年後の朝比奈さん…、俺に何度となく教唆をくれた、大人の朝比奈さんが俺たちの前に、静かに立っていた。
『あの子は、未来に連れ戻されました』
『朝比奈さんはこの事を知っていたんですか?ハルヒが自分を封印するってことを!』
 半ば怒りを込めて詰め寄ると、朝比奈さんは、今にも泣きそうな顔で笑って首を傾げた。
『“わたし”は経験しました。でも、この任務の間、記憶凍結を受けていたんです。…わたしは、未来に強制送還された後、暫くはショックで何も出来ませんでした。でも、未来から出来ることをしようと…、過去への干渉を出来る立場になろうと、頑張りました』
 ほんの少しだけ偉くなって、その権限を得た時、当然朝比奈さんはこの任務につくことを希望したのだという。その為に頑張ってきたし、自分がどれだけ適任か、切々と訴えて。上官はその言い分は認めつつも、朝比奈さんの、ハルヒに対する深い思い入れを知ってもいたので、ハルヒの自己封印に関する記憶を凍結することを条件に、許可したのだそうだ。
『ですからわたしには、“涼宮さんの力が消えた”という誤った知識しかありませんでした。
 今、わたしは記憶の凍結を解除され、全てを思い出しました。…涼宮さんが、こうならない為に頑張ってきたのに…、結局…け…っ…、あ、あた、あたし…っ』
 うわあぁぁぁぁぁぁん。
 次の瞬間、朝比奈さんは泣き崩れ、「ごめんなさいぃ、ごめんなさい、涼宮さん」と両手に顔を埋めた。その泣き顔は、数日前まだ俺より1つ上の彼女が見せた顔と全く同じだった。
 この時ようやく、俺の中で、あの朝比奈さんとこの朝比奈さんが一致した。それまでは、認めつつも、どこか、良く似た他人だと思って接していた。「未来人」という概念を頭では分かっていたつもりでも、今の技術では叶わない時間遡行を、幾度か経験したとはいえ完全には認めていなかったのだ。
 だが今、同じ顔で同じ悲痛で泣き叫ぶ朝比奈さんを見て、ああ、本当にこの人はあの人だったのだ、と、理解した。
 この人は全能の神ではない、それを知り、彼女を抱き寄せ子供にするように頭を撫でた。泣かないで下さい、朝比奈さん、朝比奈さんが悪いんじゃありません、と、彼女の気が済むまで。

 今後、ハルヒが元に戻るかは、大人の朝比奈さんでも知らないという。
 『未来が成立する為に必要な涼宮さんの力はこの時期までで全て発動されているんです。…されている、ということになっています。だからこの時代以後に関しては未来は干渉しないことになっているので、情報統制がされていてわたしのような下っ端は、“今後”を閲覧する許可はまだないのです』
 まだ、と朝比奈さんは強調した。
『もっと偉くなります、わたし…。頑張って、涼宮さんをこの世界に還す道を探ります』
 目は真っ赤だったが、涙は止まっていた。
 もしかしたらキョンくんたちの元には、明日にもおばあちゃんになった朝比奈みくるが来るかもしれませんね。そう、最後には無理矢理の軽口を残し、朝比奈さんは、姿を消した。
 それから10年、まだ俺たちはどの年齢の朝比奈さんにも出会えてはいない。


*

 この一年の互いの近況を報告しているうちに日が落ちたので、夕食の準備にかかった。
 長門の話によると、この空間内で時間が流れるのは俺たち  俺と古泉  がこの世界に入る、年に一週間きりだそうだ。それ以外の日はハルヒが閉じこもったまさにその瞬間に時間が固定されている。一日中、灰色がかったオレンジの太陽が空を染める逢魔が時。長門はずっとこんなところに居るのか。
 ハルヒが此処に閉じこもって以来、長門だけはずっとハルヒの側についていた。情報統合思念体流の言い方をすれば、「観測を続けてきた」。
 古泉の助けによりこの空間に入り込む事が出来た俺たちだったが、長居はかなわなかった。長く滞在することが空間のバランスを崩すのだと言う。いっそバランスが崩れきってしまえばハルヒは戻るんじゃないかと思ったがそういうものではないらしい。この空間ですら自分の居場所でないと思い、移動されるか最悪消滅するか…、いずれにせよろくなことにはならないだろうとのことだった。
「だが、あなたたちが一定期間傍に居るのは有用と推測される」
 俺たちが居ないなら居ないで、この世界には何の力も加わることはなく、つまり何の変化も訪れることはない、ということだ。
 だから俺たちは、バランスが崩れるギリギリの期間、一年に一週間ここで過ごすことにしていた。
 ただ長門だけはここに留まることを許されていた。
 宇宙人により作られたアンドロイドゆえ無機物と同等と思われたか、全てを拒絶しておきながら独りで在るは寂しいとせめてもの道連れに望んだか…、後者であって欲しいと俺は思う。
 インターフェイスとしての長門は、引き続き観測の任にあるとのことで是非はなかった。こうなっても観察するのか、その価値があるのかと問うと、ハルヒの力は継続しているしこの空間があること自体がその証明でもある、このような大きな歪曲を成し保つパワーは観察の価値があるとのことだった。ただし、それは長門の親玉、情報統合思念体の言い分だ。長門は一言、「心配」と呟いた。感情は持っても役目柄なかなか口には出せない長門の、それは押さえ込めきれなかった本音だっただろう。
 7年目の時、これほど変化がないのに観察するのは得がないのではないかと問った。だが長門は微かに首を振った。「500年より余程短い」。その言葉に軽い自負を見た気がした。「私は三年程度で痺れを切らすほど短気ではない」と後に続いた言葉は長門なりのエスプリの利いたジョークだった。


*

 買ってきた食糧をもくもくと口に運ぶ長門を見るともなしに見る。
 古泉が、醜く枯れる花を買ってきたがった訳が痛いほど分かる。
 もう10年経つというのに、長門の外見はあの時のままだ。服も、当時の北高のセーラー服(数年前北高の制服は女子もブレザーに変わった)。ここは高校なのだから、居る間だけでも制服を着るかと俺たちも最初の3年くらいは付き合った。だが止まらない時の中でもまれた外見は箪笥にしまわれっぱなしだった制服以上に色あせ、どう贔屓目に見ても不釣合いこの上なかったので止めてしまった。
 長門は年を取らない。ハルヒのように時間を凍結しているわけでもないのに、昔のままだ。どういう仕組みになっているのかは知らないが、実は食事をする必要も、呼吸をする必要もないのだそうだ。俺たちが居ない、独りでハルヒを見守っている時は何も口にしないと聞いて、頼むからせめて人として最低限の生命活動は続けてくれと、この異常空間においてはもしかしたら酷だったかもしれない懇願をしたら、レーションのようなものを食べるようになった。長門の好みではないだろうが、立場上それが最大の譲歩だったのだろう。だから、俺たちは此処に来る時は食料を買い込む。長門が好きだったもの、俺が美味いと思ったもの、古泉が気に入ったもの。海外旅行用のスーツケースと肩がけのスポーツバッグと登山用のリュックに入れ持てるたげ持ち込む。何故かこの空間では代謝がされないらしく  どれだけ食べてもだ  汗はかかないしトイレにも行きたくなくなる。だから俺たちは一週間の滞在でも礼儀に見合った最低限の着替えだけ持ち、他は全て長門…長門とハルヒへの供物にした。
 リヤカーでも引いてきたいくらいだったが、流石にそれは「許容量をオーバーしてしまいます」だそうだ。

 「機関」は既にない。というか初めからなかったことになっている。
 今や能力者は古泉ただ一人だ。
 自分が作った癖に  無意識にだが  ハルヒは彼らをも否定した。もしくは、開放した。
 機関と仲間達との5年に渡る日々を結果として消滅させられた古泉は、それでも、自分だけでも力が残ったことに感謝した。
 「僕はずっと自分を曝け出すことは出来ませんでしたからね。こうなってみて、涼宮さんに本当に仲間だと思われていたんだなと喜んでいるくらいです」などと腹の立つことを抜かした。
 俺にしても長門にしても朝比奈さんにしても、とっくに古泉のことは仲間だと思っていたのに軽く裏切られた気がしたが、気持ちは分からいでもない。俺にしても長門にしても朝比奈さんにしても、ハルヒに秘密にしていることはあっても人格までは偽っていない。古泉だけが、「ハルヒが望む古泉像」を演じ続け、素の自分を出してはいなかったのだ。古泉の仮面もいい加減剥がれかけていたが、だからこそ己を過飾する周りから見れば馬鹿馬鹿しいまでの苦労というものも見て取れていた。だから、俺はあえて反論しなかった。古泉だって、ハルヒや俺達を仲間だと思っている。ただ、一方通行の思いでなかったかと心配していただけなのだ。
 古泉という男はいつもへらへらと笑っている癖に、実は根暗なペシミストだった。常に呆れるような暗い想像を働かせていた。そういう鬱陶しい所も含めて仲間だと思っていた。
 流石に、「あなたを此処へ呼ぶ案内人として僕を残して下さったのかもしれませんけどね」とまで言った時はハルヒの代わりに一発殴ってやった。


*

 始まりが夕方なので、一日目の終わりは早い。普段は仕事で明け方まで起きていることもざらな俺だが、ここでは夜眠って朝起きる。長門は、本当は眠る必要はないのだろうが、この一週間だけは眠るふりをしてくれる。ハルヒが動かないのでいきおい、団室は女子の部屋となり、俺と古泉は2つ隣のコンピ研の部室で眠ることにしていた。
 この中の気温は夜でも一定だ。熱くもなく寒くもない。湿度も良好。あるいは、全く気にかけられていない。ハルヒの手が入っていれば、むしろじっとしていても汗が吹き出る真夏の暑さと湿度を保ち、夜ともなれば微かに風が凪いだことだろう。
 寝具は、体育の時に使うマットレスの上に宿直室から拝借した煎餅布団を敷いた。

 長門に就寝の挨拶をして、ハルヒに向き直る。
 膝を抱え顔を埋めるその姿はぴくりとも動かない。
 この朱い珠の成分は何かと長門に聞いたことがある。羊水のようなものか、ゼリー状のものか、水晶が如きものか。長門は一言「絶界空間」と言った。辞書にないその言葉は長門の造語だ。時間のない場所、この人間界で存在するはずのない場だそうだ。
 触れる。
 暖かな色をしているくせに、この珠は他者を拒むように堅い。堅い癖に、冷たくはない。冷たくないのに、暖かくもない。室温と同じ空気に触れるように拠り所のない感触で、何の主張もしないことが、逆に、きっぱりとした拒絶を見せつけられている気がした。
「…お休み、ハルヒ」
 呟き、手を離す。
 珠を揺さぶり「お前は何がしたいんだ!」と絶叫することはもうない。「帰って来てくれ」と懇願することも、言葉なく嗚咽することも。この10年であらかたやり尽くしてしまった。しかも、一度や二度ではない。
 ハルヒが閉じこもった一番の理由は、自責の念だ。自分の勝手で世界を変容させ、一夏で500年の時を繰り返し、大事に思っていた仲間を、何度も危険な目に合わせた。そんな自分が許せず、自分の力が許せず消滅を願った。
 …ハルヒの力は万能ではなかったらしい。ただ一つ、「自分の力を消す」力はなかったそうだから。「力を持たない涼宮ハルヒが居る世界」をもう一つ作ることなら可能だったようだが、それでは根本的な解決にはならい。ハルヒは自分の力を嫌悪したが、コントロールは出来ず、周囲をこれ以上巻き込むまいと、あたし一人が消えれば良いんだと、自身を力ごと封印した。
 だから俺は、俺たちは、ハルヒが消える必要はないのだということを分からせようとした。
 出会って2年ちょい、俺たちが本当にどれだけ楽しかったか、一晩中語りかけたこともあった。お前が居たからこそ、お前の力があったからこそ平凡なはずの高校生活が奇知に富んだ得難いものになった、俺はお前に感謝している、とうったえた。
 泣き脅しもした。お前のせいで平凡な生活がつまらなくなった、責任取ってこれからも付き合え、団長たるもの下っ端の面倒をみなくてどうする、と。
 天岩戸を真似て、隠し芸をやり続けたこともある。
 万策尽き、何も言えずただ見つめていたことも。
 見捨ててみるかという案も出たが、ただでさえ細くしか繋がっていない絆、ここで断ち切ってしまっては二度と取り戻せなくなると、怖くて出来なかった。
 長門の力で無理矢理時間凍結の解除を試みるという、それがどんな結末をもたらすか  最悪、世界の終焉か  は定かではない荒療治は、最期の手段とした。俺たち誰か…俺と古泉のどちらかの命が尽きる時、それを俺たちのリミットと位置づけた。その時が来たら世界がどうなろうが情報統合思念体の方針がどうあろうが必ず動くと長門は保証した。「私の意思」。己の思惑を外れて行動するインターフェイスを、情報統合思念体がどう思っているのか、処分されはすまいか心配したが、長門の親玉は、そんな長門の変化すら面白がって観察しているらしい。独り立ちする我が子を見守るような心境なのかもしれない。

 寝室代わりのコンピ研部室に入ってから俺と古泉の会話はあまりない。昔は、ハルヒを呼び戻す為に何をするかを話し合っていたのだが、最近はもうアイディアが尽きたからだ。一年会わなかった互いの近況は、ハルヒも長門も交えて報告したかったので、団室でしていた。
 ただ一昨年辺りから、古泉は長門を気にするようになっていた。このような場所で独りで過ごしていると心が病む、折角人らしくなった長門さんがまた機械に戻ってしまう、と。
「たまには長門さんも、外の世界に出られたら良いのですが」
 今日も、古泉は眠る間際にそう呟いた。
 古泉は大学を卒業した後日本を出て、ジュニアハイの子供達を対象にした日本語の教師をしているそうだから、一回り違う姿の長門を、教え子のように思っているのかもしれない。
 わざわざ海外で教鞭をとる理由を古泉は「バカンスの習慣があるので長期休暇が取りやすいのですよ」と嘯いたが、日本に居れば目に付かずには居られない全国に散らばる機関の残滓…“思い出”と向き合うのが苦痛だったからだろうと踏んでいる。尤も、表向きの理由にも頷ける。俺も大学を出てから最初は普通に就職したが、この時期に一週間の休みを取ることは至難の業で、結局仕事を辞めてしまった。ハルヒを後回しにすることは出来ず、かと言って人が納得する理由も思いつかなかったのだ。
 ハルヒの所為で人生が狂ったと思うことはないかと聞かれたことがある。10年前ならば答えに窮しただろう。だが今なら迷うことはない。「母親が違っていたら、俺の人生は変わっていたかと同じくらい、意味のない質問だな」。ハルヒに会わなかった俺なんぞ、もう俺じゃないさ。


*

 日ごろ不健全な生活をしている俺だが、此処にいる間は日が昇ると自然に目が醒める。自然の摂理に則らない力で支配されているからかもしれない。
 朝の身支度を整えて団室に向かう。
 この扉を開ける時はいつも、もしかしたらハルヒが仁王立ちして「キョン!おっそい!」と怒鳴り声で迎えてくれるのではないかと淡い期待をしていまうのだが、当然そんなことはない。開ければ真っ先に朱い珠が目に入る。前日と寸分違わぬ姿で蹲る少女の姿が。
「はよ、長門」
「…おはよう」
「…はよ、ハルヒ」
 ねぼすけが。いつまで眠っている気だ。いつまでそうやって蹲っている気だ。
 心の問いかけに返事はない。
 昔、一度だけ返事が聞こえた気がしたことがある。『あたしの力がなくなるまで。あたしが、誰の迷惑にもならなくなるまで』と、半ば拗ねたか弱い声で。多分幻聴だ。誰も迷惑にも思っていない、むしろそうやって閉じこもっていられる方が良い迷惑だと説いたが聞き入れられなかった。
 ハルヒは膝に顔を埋めている。どんな表情をしているのかは全く見えない。
『キョン、ごめんね』
 お陰で俺の一番新しい記憶は、最もハルヒらしからぬ心細げな顔だった。自分の力を知り、俺に…俺たちにどれだけ負担を強いたか知り、自責した。らしくない。まったくもってハルヒらしくない。
 だがらしくないと思うということは、俺たちはハルヒの本質を全然理解していなかったということだろう。10年の長きに渡る篭城は、人の話を全く聞かないという俺たちの良く知る性質にもよるが、俺たちを傷付けた(と思った)慚悔からだ。
 ハルヒが、そんなことで傷付くとは誰も思わなかった。横暴で、傍若無人で人を人とも思わない暴君。自分が全能であると知れば、世界を好きなように変容させるだろうと多くのものが思っていた。
 だがハルヒは世界を変えず、己を封印した。
 その力を忌んだとしても、もっと簡単な方法があっただろうに。

 日中、俺と古泉はボードゲームをし、長門は本を読む。非建設的だが「穏やかな日常を過ごす」が去年の最終日に話し合って決めた今年の方針だった。ハルヒの気が済むのを気長に待ってみる…待つふりをする。10年目にして初めて出た案だった。
 大人になると対面でゲームをする機会もめっきり減るので、俺と古泉はそれなりに新鮮だが長門は退屈ではないかと思う。この空間に外から何かを持ち込むのは年に一回、それも、量に限りがある。今回、長門の為に持ち込んだ本は、俺が23冊、古泉が12冊。下手すると一ヶ月と持たない。長門は今年のそれらは俺たちが居なくなってから読むと決めているらしく、今は何度か読んだらしい去年持って来た本を読んでいる。
「その本読むの、何度目だ?」
「5度」
「同じ本を何度も読むのはつまらなくないか?」
「平気。一度通して読んだあと、二度目はこの本の中で“あ”という文字がいくつ使われているか数えながら読む。終わったら次は“い”。そうすることにより同じ本でも多角的に講読が可能」
「………」
「…冗談」
「…そっか…。…何がおかしい、古泉」
「…いえ、海外にいると中々漫才を見る機会もありませんので…」
「何をわけのわからないことを言っている!」
 そうやって軽口を叩いていると、昔に戻った気がする。明らかに構成員は不足していたのだけれど。
 ろくにすることもないというのに、意外に時は退屈せずに過ぎていった。発展性のないこの時間が得難い貴重なものだと分かっていたからかもしれない。朱に埋もれるハルヒも、窓から差し込む薄明かりの下本を読む長門も、昔よりは多少は定石を覚え強くなった古泉との対戦も、この空間から出てしまえば虚構に等しいものとなる。眠たげな、退屈そうな顔をしつつ俺は、一陣の風のそよぎでも見落とすまいと、神経を張り詰めていた。

 夕食時、古泉が長門に、ここ一年の出来事を聞いた。当然のように「変化はない」と返ってくる。
「涼宮さんに変化はありませんか?例えば、力が弱まっているとか、逆に強くなっているとか」
「観測される数値に変化はない。この時期に空間内での構成粒子に移動は見られるが、増減はない」
 昔に比べて長門の説明は分かりやすくなっている。俺が慣れたのもあるだろうが、長門が人寄りになった結果でもあるだろう。
 相変わらず古泉は一を聞いて十を知った顔をして頷く。
「外の世界に、涼宮さんの力は流出していないのでしょうか?」
「確認されていない」
「ですが、涼宮さんは世界を変容せしめる巨大な力をお持ちの方です。長門さんたちが観測不能の方法で作用しているということは?」
「………」
「いえ、長門さんたちの能力を疑っているわけではありません。そうではなく、ですね」
 一瞬むっとした長門をあやすように古泉は柔らかく笑み一旦言葉を切った。手にしていた食器を置き、まどろむように深呼吸をする。
「…今、世界はとても平和です。小さな内乱は所々で生じているものの、大戦と呼ばれるほどの争いはどこにもない。
 トップシークレットですけどね、僕が機関に居た当時、多くのアナリストが、数年から十数年のうちに世界大戦が勃発するというレポートを提出いたしました。北朝鮮、中東、中国…、導火線は世界中に散らばっており、何か一つ対策を取ったところで別のどれかが爆発する…、戦乱は避けられない、ただ如何に最小に押さえるか、それが無理なら如何に日本はその余波から逃れるかを模索する段階である、と」
「読み違えたんだろうよ」
「かなり信憑性の高い分析だったのですよ。世界中で同じ分析結果が山ほど出ていたという話です。
 人智では避けられない、では、人智を超えた力で救うしかない。機関のお偉いさんの真意はそこにありました。
 ですが今は機関のことは問題ではありません。僕が言いたいのは、だのに今は戦争の気配はなく世界は平和だ、ということです。
 …人智を超えた力が働いているからだとは考えられませんか?
 涼宮さんが世界の平和を願い、深い眠りにつきつつもその力で世の均衡を守っている、そうは考えられませんか?」
 驚いて目を見開いたが、古泉の目に茶目っ気を含んだ笑みが浮かんでいるのを見て、思い切り顔を顰めた。
「…まだ発売日前だぞ?」
「ちょっとしたツテがありまして、見本誌を戴きました。長門さんにも…と思いまして…」
「おい!」
 わざわざ今、サイドバッグから取り出したそれを奪い取ろうとして立ち上がり、机の角に膝を強かに打ちつけた。激痛に悶絶している間にそれは長門の手に渡る。長門は手渡された文庫を見、不思議そうな目で古泉に問う。
「彼の作品です。彼は3年ほど前から、文筆業を生業にされているのですよ」
 長門の目に浮かぶ色が疑問から糾弾に変わる。何故黙っていたのか、という目だ。
「…悪かったよ。…その、言うのが恥ずかしかったんだ」
「恥ずかしい内容?」
「いや!そんなんじゃ…。…まあ、ある意味恥ずかしいんだが…」
「青春群像とでも申しましょうか。高校を舞台に、高校生を主人公にした日常生活を描かれています」
 長門の目線が古泉に移る。「何で知っている、知っていて何故教えなかった」というキツイ目線だ。古泉は慌てて肩を竦める。
「僕も昨年の最後の日にやっと聞きだせたんですよ。実際に作品を拝見したのは外に出てからですし」
 俺が小説のようなものを書き出したのは3年前だが、その年は文庫が一冊出たきりだったしバイトと平行しての執筆だったので、職としたという自覚はなかった。最初の一冊がそれなりの支持を得、次の年はコンスタントに書けるようになって糊口を凌げるようになりバイトは止めた。だが俺は自分で才能があるとは思わないし文章も決して上手くはない。きっぱり、何でこんなもんが受けるのかがさっぱり分からない。「等身大の拙さが良いんですよ」と担当は言うが、それは決して褒め言葉ではない。2,3年もすれば…いや、明日にでも飽きられまたじきにフリーターに戻ることになるだろうと思うと、古泉や長門には言えなかったのだ。
 それが、古泉の舌三寸に乗せられてぽろりと洩らしてしまった。本当はペンネームもタイトルも秘しておきたかったのだが長門にバラすと脅され、外に戻ってから半ばやけくそで著者謹呈本を一式押し付けてやった。「お前と俺の秘密だ」と言い、約束をとりつけたはずだったのに、2日もしないうちに「これは是非長門さんにも読んでいただくべきです」とわざわざ電話がかかってきた。冗談じゃない、約束が違うと抵抗したが、「涼宮さんを呼び戻す足がかりになるかもしれません」とかなんとか説伏され、今回の長門宛の荷物には俺の単行本7冊が入っている。
 内容は、どれも高校を舞台にした他愛ない日常生活を描いてある。見る者が見れば、かつての北高、SOS団がモデルであることは一目瞭然だが繰り広げられるエピソードは実際にあったものではない。SFでもファンタジーでもなく、不思議パワーを発揮する超絶人間も、未来人も、宇宙人も、超能力者も出てこない。ただ、ちょっと迷惑な万能美少女と、童顔の上級生と、無口な文学少女と、ニヤケ面のハンサムと…、普通の高校生が登場する。あの時代をそのままなぞらえれば面白いSFが描けただろうが  あるいは荒唐無稽すぎて見向きもされないか  そうしなかった。俺は、ハルヒが、朝比奈さんが、長門が、古泉がごく普通の高校生だったとして過ごしただろう風景、ハルヒに過ごさせたかった時代を描いた。…願望の現われだ。恥ずかしくないわけがない。
 ただ、古泉が今出した1冊、本来なら3日後に店頭に並ぶはずの最新刊は、少々毛色が違っていた。シリーズからは外れた新作で、SFもどきと言おうか、なんちゃってSFとでも言おうか。水晶の壁の中に眠る少女が出てくる話だ。少女は、超自然的力を持つとある星の守り神だったが、自分を利用しようと群がる人々に嫌気が差し人の声が届かない場所に自分を閉じ込め眠りについてしまった。だが少女は星も人も本当は深く愛していたので、眠りながらも星と人々を守り続けている、という筋だ。先ほどの古泉の発言は、その小説の設定を元にしていた。指摘されるまでもない、俺はそれを、ハルヒを思い浮かべつつ書いた。
 書いた以上はやがて古泉には知られ、知られたからには何ぞの突っ込みがあるとは思っていたが、今ではなかったはずだ。
 長門は古泉からそれを受け取り開こうとする。
「まてっ、待て、長門!それは今読むな!」
「………」
「最新刊ですから。シリーズではありませんが、刊行年順に読まれるべきかと。それ以前のものは手土産の中に…」
「煽るな!古泉!でなくてだ!俺たちが帰ってから読めと言っているんだ!当初の予定通り!」
「おや?手慰みの手記ならともかく公に刊行された出版物をいつ読むかは読者の自由ではないですか?それに、涼宮さんの前であなたの作品を読むというのは、良いアイディアだと思うのですが」
 ハルヒに読み聞かせろというのか!?どんな羞恥プレイだ、それは!
「良いわけあるか!俺を悶絶死させる気か!」
 古泉は聞き分けの無い子供を諭す辛抱強い保母のように困った顔で俺を見て首を横に振った。
「冷静に考えて下さい。涼宮さんはこの世界が辛いと言って引きこもっていらっしゃる。昔あなたがおっしゃったように天岩戸です。涼宮さんが好きなあなたが書かれた、高校時代をモチーフにした小説は、涼宮さんの興味を引き起こさせるに有効ですか、無意味ですか」
「………」
 確かにそう聞かれると有効だと言わざるを得ない。俺が描いた世界は都合の良い偶像に満ちているから、読み進めていくうちにハルヒが「あんた何書いてんのよ!」と怒って飛び出して来ないとも限らない。羞恥に悶える俺を見て揶揄う為に殻を破ることも考えられなくはない。だが。
「…今年は『何もしない』って方針を決めただろう。取り合えず今回はそれていこう。ダメだったら次にそれを採用する」
 断固として告げると、不満そうではあったが二人とも一応同意した。
 …読み聞かせて、己の深層に在った欲望をみせつけ、それでいて何も変わらなかった、その絶望に耐える覚悟はまだ出来ていない。一年かけて決めておく。
 一瞬だけ騒がしくなった団室だったが、主の朱い珠はぴくりとも動かない。
 心にまた一つ、諦めという名の氷の塊が落ちた。


*


 それから特筆すべきことはなく、日々はただ淡々と過ぎた。こんな異常空間で、だがそれはこの上ない日常だった。
 ある朝、いつものように身支度をして団室に向かうと、いつもとは違い部屋の前で長門が立っていた。すうっと、体から力が抜ける。
「…もう一週間経ったか?」
「そう」
 日を数えているはずなのに、いつもこの日を忘れてしまう。もしかしたら記憶がわざとぼやかされているのかもしれない。
 古泉も隣で息を吐いた。
「別れの挨拶、出来ないか?」
「無理。飽和する」
 毎年のやり取りを今年もして、ただ、「最後にもう一回会わせろ!」とタダをこねることはもうせず、諦めの溜息を吐き長門が運び出しておいてくれた荷物を持ち上げる。
「じゃあ、また。来年な。…ハルヒのことを頼む」
「元気で」
「そっちもな」
「来年はあなたの作品を読み上げましょう。今から楽しみですね」
「………」
「そんな顔をなさらず。ダメですよ、決まったことですから」
「…わーってるって。腹括っとくって」
「新作」
「ええ、新しい作品が出ましたら、それもお持ちください」
 “来年”を思い胃に痛みを覚えつつ、俺はここ数年で一番雑念を抱えたまま長門とハルヒに別れを告げた。

 校舎を出るまで俺たちは一言も口を聞かなかった。
 「お手を」と言われて手を差し出し、慣わしのように部室棟を見上げる。朝日に照らされ爽やかに輝いている癖に、それは、全てを拒絶する哀しさをまとっていた。
 同じように古泉も物悲しい眩しげな目をし、暫し眺めた後、俺の手を取る。
 校門に向かって歩き、入った時と同じく、ゼリー状の何かを通り抜ける感触がした後、俺たちは外に出た。
 途端に、ざあああああああっと風の音がする。鳥が鳴く。色彩が目に飛び込む。
 五感を強打され、立ちすくむ。
 毎年、そうだった。
 あの、静謐な閨の中から戻って来ると、世界はなんと音や色に満ちているのかと感心してしまう。空気にも匂いがあること、風にも音があること、草むらに潜む蟻の呼吸すら聞こえてくる気がする。
 世界はこんなにも多くのもので溢れている。
 振り替えると、先ほどとは違う、色鮮やかな校舎が聳え立っている。先ほどまでいた世界と比べるとあまりに鮮明だったが、明らかに歳月を経て古びていた。あの世界から、ハルヒの記憶から今は、十余年の時間が経っているのだ。
 あれは、北高だ。だが北高ではない。
 ざあぁぁぁぁぁ、と、音がする。だが今度は風の音ではない。実際に聞こえるのではない、頭に直接響くこの音は。
 ふいに、目頭が熱くなる。
 強い悔恨が濁流となり押し寄せ、俺を飲み込む。
「…った…」
「………」
「…今年も、ダメだった…」
 言葉と共にあふれ出た涙を晒したくなく俯く俺の手を古泉がぎゅっと握った。
「…んで、何も…、もっと…。…なんでっ、何もしなかったんだ!たった一週間しかないのに!次は一年も先なのに!俺たちは一つ年をとるのになんで!!」
 今年の方針だったが、何の変化もなかったことで、無為に過ごした感は強い。
 先ほど響いた暴風に似た音は、時間が流れる音だったのだ。
 あの中では忘れていたが、時は待ってくれないのだ、走るより速く去っているのだ。俺たちの周りだけ!
 何かすればよかった、そう、小説を読み上げるのだって試してみりゃ良かったんだ、恥ずかしがらずに!そうわめき叫ぶ俺の手を、古泉は黙って握り続けていた。


「…すまなかった」
 激動が去り、涙が止まって、それまでずっとつながれていた手を離しぶっきらぼうに謝ると、古泉は爽やかな笑顔で「いいえ」と首を横に振った。
「あなたが弱味を見せるのは滅多にありませんから、新鮮でした」
「そうか?しょっちゅう見せている気がするけどな。長門にバラされた時もそうだったし、珠ン中のハルヒに泣き喚いたことだってあるだろうが」
「そうですが、それはどこかあなたが許して見せて下さっている気がしたのですよ。今回のように、見せたくない部分まで曝け出したことはまずないかと」
「…じきに30だ。涙腺も弱くなるさ」
「サバを読まないで下さいよ。もう少し後じゃないですか」
 そうは言われても、20代も後半になると、今まで感じなかった焦りや感慨も生まれてくる。
「自分の顔を鏡で見ても、そう変わっているとは思わんが、お前を見ると老けたよなぁと思うよ」
「あっ、酷いなぁ」
 年を取ったと言いたいんじゃない。成長した、大人になったというべきか。再会した直後は変わらないと思うのだが、18の頃から年を取らない長門たちと会った後はやはり年を経たと思い直す。そして愕然とする。…朝比奈さんはよく俺たちに会いに来れたものだ。
「なんかこー、今までの分が溜まって一気に疲れが出た。…古泉は案外平気そうだな?」
 泣き顔を見せてしまった気恥ずかしさから、多少の皮肉を込めて言うと、古泉はふふ、と低い声で笑った。
「僕は案外気が長いのですよ。60年生きれば、そのうちの10年20年は待つに長い時間ではない、と、教えられましたので」
「ふーん?」
「新川さんに」
「………」
 俺はぎょっとして古泉を見る。ついぞ聞かなかった名前を告げたその顔は、意外にも爽やかだった。
 かつて機関の一員だった新川さんは、今は居ない。どこかに存在するかもしれないが、古泉にそう言い力づけた記憶を持つ温和な老紳士は居なかったことになっている。
 それは古泉にとって大切な思い出だったのだろう。迂闊に取り出し晒せないほどに。あの日以来、古泉が機関の思い出を進んで語ることなどなかった。
 だが古泉は話題にした。何か一つ乗り越えた、あるいは思い切ったのだろう。
 しみじみと眺めていると、古泉は「あまり見ないで下さいよ」と照れくさそうに笑った。
「…焦るな」
「焦りますか」
「どんどんハルヒとの距離が開いちまう。20年どころじゃない、そのうちじーさんになっちまうんじゃないかと思うぜ」
「白髪の老人とぴちぴちの女子高生の同窓会。シュールですね。まあでもそうなってしまえば涼宮さんのことですから、時間を戻して下さるかもしれませんし」
「…お前は…」
「はい?」
「お前は、古泉、ハルヒに時間を戻してもらいたいか?あいつが目覚めて、10も20も年の差が開いていたら、同じ年に戻してもらいたいか?」
「…そうですね、選べるのでしたら遠慮しておきます。確かに涼宮さんとは年が離れてしまいましたし、この姿で今の涼宮さんに会うのは不釣合いかもしれませんが、この10年で僕は色々なものを得てきました。涼宮さんが喜びそうな世界の不思議や怪談、世界のご馳走などもですね。…僕はそういうものを涼宮さんに教えてあげたい。世界には面白いものがたくさんあるのですよ、と知らせたい。一介の高校生の僕では伝えられなかったことを」
「俺もだ。この10年、どけだけ苦労したかぶちまけないと割に合わん」
 ぶちまけられれば、10年20年の不満は一気に消し飛ぶだろう。
「あなたの素晴らしい作品も、ですね」
「………」
 古泉は笑い、俺は顔を顰めた。
 どちらともなく、歩き出した。坂を下りていくうちに、次第に人のざわめきも戻ってくる。
 古泉は今日のうちに日本を発つというので、うちに置いておいた荷物を受け取りにだけ寄り、その足で空港に向かった。

「アナリストたちの報告は本当です」
「政情分析のか?」
「はい。確かに、大戦は回避可能との分析もありましたが、大方の見方は一致しておりました。そして機関の裏の目的は涼宮さんを使って世界の安定を図ろうというものでした。あなたの新作の話を持ち出す為のホラではなく」
「…それで?」
「だのに未だに世界は平和です。個人レベルの不幸は後を絶ちませんが、罪のない人が何万と死ぬ惨事は免れています。…僕は、涼宮さんの力が世界に漏れ染みているという説に賛成です。涼宮さんが、完全には停止していないということを、まだこの世界を愛しているのだということを」
 信じています。
 最後に、その言葉を残し。

 古泉を見送った後、俺は一人で街をぶらつく。この世界をかみ締める為。こっちが本物であると体に刻む為。あんな世界はうそばちだと確認する為に。
   ああだがなんと虚しいことか   
 街には人が溢れている。笑いさんざめき活気に満ち溢れている。だのに、お前は居ない。
 すれ違う女子高生の高い笑声が一陣の風のように通り過ぎ、消えた。俺の心は彼女達と同じ年代にまだ留まり続けているというのに、あの輪の中に混ざることは決してかなわない。
 あえて街中に出たというのに、耐え切れず、俺は人気の少ない小道を上がる。変電所を頂く小山で、とりたててみるべきものはない。日ごろ鍛えていない体で昇るには少々きつい山道だったが、枷とした下界を切り離したように、心は軽くなっていた。いや、拠り所を無くしていた。

 夕闇が空を染める頃、俺は高台に立ち街を見下ろす。
 あそこには、たくさんの人が息づいている。居て、暮らしている。だのに、お前は、お前たちは居ない。
 自分がちっぽけな存在だなどと、どの口が言う。お前が居ないだけで、世界はこんなにも虚しいというのに。
 こいずみ、ながと、あさひなさん、…ハルヒ!
 会いたいものたちの名を呼ぶ。
 だが過去ではない。あいつらと過ごした高校時代を呼び戻したいのではない。過去に縛られ抗えず呼び寄せられるあわいの亡霊としてでもなく。今だ。今!
「…俺は、お前たちに会いたい…」

 あの場所より明るい朱に染まる世界は、ハルヒが作った珠の胎内にいるようで、少しだけ暖かく、酷くもどかしく、俺の心を軋ませた。





1年後にハッピーエンドになるかもしれない、10年かかるかもしれない、そんな日は来ないかもしれない、そんなお話。「ハルヒの力はなくならないし、自覚しても世界は変容しない」とは、結構しっかり思っています。勿論、「力がなくなったら」も考えますが。同じテーマ?で今度は古キョンで明るい方向で、お話を書いてみたいなーと思っております。