それはほんの些細なこと



 人を好きになるきっかけというものは、時としてとても些細なことだ。
 気の強い人がふとした拍子に見せた涙だったり、困難に立ち向かう人の凛とした横顔だったり、難問に対して自分では及びも付かない妙答を披露された時だったり。何気ない表情や一言が、それまで眼中外だった人をあっという間に特別にしてしまう。
 彼を好きになった、その初めの一歩はそういったちょっとした出来事がきっかけだった。
 当時僕達は高校一年生で、知り合ってまだ4ヶ月足らずの(記憶していない600年はノーカウントだ)残暑厳しい9月の初めの事だった。
 その日の放課後はホームルームが長引いて、しかも掃除当番にあたっていたものだから、僕はかなり遅れて文芸部室に到着した。珍しいことに女性陣は一人も居らず、彼だけが夕日の差し込む部屋でぼうと佇んでいた。
「他のみなさんは?」
「近所に屋台のクレープ屋が出ているとかで買い出しに行った。男にスイーツを選ぶセンスはないから留守番していろとよ」
 本日は早仕舞いというわけではないとのことで、ではいつものようにボードゲームの相手を乞おうかと鞄を置いて視線を移すと、彼はなんとなく心をどこかに手放した夢見がちの目をしていた。いつも全身を包んでいるシニカルな殻が見当たらない。
 ふと手元を見ると、綴じられた本がある。手のひらに隠れていてはっきりとは分からないが、様相からして漫画本のようだった。
「どうされました?」
「んー?いや、平和だなと思って」
「涼宮さんも最近は落ち着いていらっしゃいますから」
 流石の彼女も夏休み終盤の無茶以上のネタは思いつかないらしい。…ほんのつかの間の平穏だろうが。
 ハルヒの騒がしさは変わんねーよと苦笑し彼は首を横に振った。
「そうじゃなくてさ。…今これを読んでいて  クラスのヤツに借りたんだ  、ちょっと、な。
 太平洋戦争末期が舞台の漫画なんだが、ハデなドンパチはないし、「歴史もの」って壮大なものでもない、人間ものかな、普通のどこにでも居る人々の日常を描いた話だ。ただ生きた時代が戦争の只中で、舞台が呉だった。
 食べて、泣いて、笑って、恋をして、子供を生んで…、嫁姑問題ってのもあったな。けど戦時中なもんだから、ばかすか空襲とかあってよ、防空壕に逃げ込むのも日常で、みんな生きるのに  死なないのに必死なわけだ。この話のラストは戦争が終結して、戦後の生活が動き出したところで終わっている。何かが決着したって感じじゃなくて、夜になったから明日の為に眠ろうかって感じでな。
 戦争が終わっても、彼女達の人生は終わらない。終わらず生き続けて、今の日本に、俺たちに続いている。今こうやってハルヒがどうの、未来人がこうの、情報統合思念体がどうした、って言ってられるのも、こういう人たちが日本を作ってきてくれたからなんだな、って思っちまって」
 こうやって安穏と高校に通っていられるのは平和なんだなって思ってさ。しみじみとそう告げた。
「………」
 その感傷は分からないでもない。
 この世界が実は三年前に作られたのではないかという考え方に捕らわれる僕でさえ、親の代ですら伝聞でしか知らないあの戦争の話を聞くと神妙な気持ちになる。過去を否定する言動は憚られる。閉鎖空間で命がけの戦いを強いられている境遇でも、勝ち得る力を持って戦う事の平穏さに申し訳なく思う。僕らの祖先たちは、死ぬしかない戦地に駆り出されていたのだから。
 ただそれでも、だからと言って僕達が負い目を感じる必要はない。今を生きない理由にはならない。過去の上に立つとは言え、現在は紛れも無く存在し、未来の為に僕たちは僕たちで道を築いていかなければならない。誰に憚ることのない、僕たちの生は僕たちのものだ。
 いやそもそも生はそんな大仰な理由を付けなければいけないものではない。否応なしに在るものなのだ、全てのものの上に立つ前提なのだ。
 …いいや、彼はそういう理屈を聞きたいのではないのだろう。ただ今読んだ作品の余韻に浸りたいだけなのだ。
 だから僕はあえて何も言わず彼の前に座った。
「10年後くらいに」
 窓の外を眺めながら静かな声で呟く。
「このまま行きゃ、俺はどこにでも居る平凡なサラリーマンだ。美人じゃないが性格の良い嫁さんもらって、子供の一人や二人は居る。仕事は忙しく稼ぎは少ないが家族の笑顔に支えられている」
 高校生らしくそれなりに大それた、でも彼の性格を映した身の丈に合った夢だ。
 涼宮さんがいる限りそんな未来はあるはずはないのに。
「旅行や外食はそうそう出来ないが、休日には子供連れて公園に行ったりする。「ガキの相手は疲れる」とベンチでため息を吐きつつ、はしゃぐ子供の笑顔見てささやかな幸せを感じるわけよ。その時に  
 出し抜けに、彼が僕を見つめた。見つめて、なんとも穏やかに微笑んだ。
「その時、昔を振り返って『俺が今こうやって平凡な幸せをかみ締めていられるのも、あの時古泉たちが頑張って世界を守ってくれたからなんだな』としみじみと思う、そんな日が来るのかもしれんな」
 その瞬間、僕は彼を好きになった。
 きゅっと胸が苦しくなりだのに体がかあっと熱を持った。
 それまでなんの感慨も生まなかった彼の笑顔が、その時僕の特別になった。
 無防備な信頼と対価を求めない感謝、それはそれまでの僕には無縁のもので…などと後付の理由はいくらでも思い付く。ひとたび関心を持ってしまえばおよそ欠点を持たない人なのだから。でもその時は理性など全く働かず、感情で、感覚で僕は彼を好きになった。

 あれから7年。彼の言う10年後まであと3年。でも多分彼があの時描いた通りの未来は来ない。僕が来させない。
 ただ別の形の幸せを持っている。何気ない拍子に幸せを感じて、10年前を思い出してくれるに違いないと思っている。




書いてみたら何が書きたかったか分からなくなりましたとさ。…こんな話があと3つほどある…。